私の仕事は、サービスデザインの初期のほう、企画の段階でお声がけいただくケースが多いです。
生活に残るペインを発見し、どういうからくりでそれが軽減できるか考え、できるだけ自然な体験に落としていく。多くの場合、依頼されるのはそこまでです。
ただこの仕事を長く続けていると、恥ずかしい勘違いをするようになります。
よく考えられた仕組みであれば、あとは自然に広がっていくはずだ、という思い込みをもつ。実行の部分のタフさが視界に入らない。世の中に仕組みが定着する極めて大事な部分が見えないまま、自分が何かをやった気になる。
そこが常に怖いと思っています。
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ちょうど先日、国内のタクシー配車サービスが立ち上がっていった頃の話を、当時から関わっていた古い友人に聞きました。いまでは、生活のインフラのように使われているサービスです。呼べば車が来ることを、もう誰も特別だとは思っていません。
聞いた話は、まさに企画の段階だと見えない部分、汗をかく泥臭い部分でした。私の印象に強く残ったのは、テクノロジーの部分ではなく、朝、何度も何度もタクシー会社に足を運んでいた人の姿でした。
朝の点呼に、通っていた
いかに素晴らしい仕組みを作っても、使われなければ意味がありません。
知ってもらい、試してもらうことが当然必要で、それは経営者だけがゴーサインを出せば進むというものでもありません。
入り込むにあたっては、経営者に会う、現場のマネージャーに会う、タクシーを運転するドライバーに会う、という三つの層があったといいます。
そのうち、いちばん難しかったのが、ドライバーだったそうです。
ドライバーには発言力がありました。タクシードライバーに共通する文化というものがあって、自由に動くことをよしとする。言われたことをやる、という文化ではない。なので、システムが指し示す通りに走ってください、と言われても、まず否定から入る。
そこで何をしていたか。
とてつもなく地道な話ですが、朝の点呼の現場に行くのだそうです。
タクシー会社には、朝のルーティンがあります。天気を確認して、アルコールチェックをして、その日の点呼をする。その場に顔を出して、説明をする。試してもらう。困ったことを聞く。また行く。顔を覚えてもらう。ときには、純粋に仲良くなる。
それを、かなり長い期間やっていたそうです。
断る理由は、はっきりあった
システムの導入が合理的、とはいっても、あらゆるシーンでポジティブな成果が得られるわけではない。
使いたがらないドライバーのほうにも、言い分がありました。
システムが指し示す通りに走っても、取れるのは平均点なのだそうです。入ったばかりの新人には、これは大きな意味があります。何も分からない状態から、いきなり平均のところまで行ける。
けれど、ベテランには違いました。自分の感覚と、自分で開拓してきた客の取り方で動いたほうが、実際に効率がよい。そして稼ぎは、そのまま自分の収入に返ってきます。
つまり、腕のある人ほど、使わない合理がありました。
配車アプリは、一社で普及したわけではない
実は近しい話を、競合となる海外発タクシー配車サービスの日本展開を担った方からも聞いたことがあります。
海外ですでに大きく成功していたサービスです。プロダクトの完成度も高い。それでも、日本に持ち込めばそのまま広がるわけではなかった。その人もまた、タクシー会社に何度も足を運び、使い方を教え、現場の人と話し、関係をつくることに、ずいぶん時間を使ったと話していました。
会社も、出発点も、持っている武器も違います。それでも、やっていたことは驚くほど似ています。競争している会社が、結果として、新しい行動様式を根づかせる費用を分担している。そういうことが起きていたのだと思います。
普及というのは、一社が勝った結果として起きるものではないのでしょう。同じ地面を、別々の会社が別々の理由で耕していて、その総和として、ある日その地面が使えるものになる。
扉は、外側から開いた
友人から聞いた話に戻します。
では、朝の点呼に通い続けたから受け入れられたのかというと、そんな単純なことではありませんでした。
流れが変わったきっかけは、感染症の流行です。街から人が消え、これまでのように客を拾うことができなくなった。タクシー会社にとっては、経営が続くかどうかという話です。何をしてでも生き延びなければならない、という状況になって、ようやく試してくれるようになった。
もう一つは、現金離れです。電子マネーが広がるなかで、決済の手段をどう用意するか、その端末をどう手配するかは、現場の気持ちとは関係なく、経営の課題としてすでにそこにありました。そこに入っていけたことが、大きかったそうです。
長く通っても開かなかった扉が、外側の事情で開いた。そういう順番でした。
溺れた人は、藁を探さない
ではそれまでの日参は何だったのか。打たなくてよい手だったのか。
私はそうは思いません。
話をしてくれた友人は、コロナの時期は、タクシー会社の側が藁にもすがる状態だった、という言い方をしていました。
この言葉がそのまま答えになっていると思います。
溺れた人は、藁を探す余裕などなく、手を伸ばした先に、たまたまあるものを掴みます。だから、そこにあると知られていないものは、掴まれません。どれだけ丈夫でも、視界の外にあれば同じことです。
点呼の場に通っていた時間は、まさに掴まれるための時間だったのだと思います。
何度も説明されて、すぐには使う気にならなかったけれど、あれがあったと思い出せる。その状態になっていたから、いざというときに、選択肢として浮かんだのではと想像します。
扉をこじ開ける作業というより、扉が開いたときに手に取ってもらう作業だった、といえるのではないでしょうか。
効いたかどうかは、あとからも分からない
この種の仕事は、報告がしづらいものです。
半年通って、何が進んだのかと問われても、答えようがありません。システムを使ってくれる人が、線形に伸びるわけでもなく、顔を覚えてもらいましたとしか言えない。だから、こういう非効率にみえる活動は、たいてい真っ先に削られます。
けれど、削ったことの結果も、同じように見えません。掴まれなかった藁は、掴まれなかったという記録すら残らない。誰かが困っていた瞬間に、候補として浮かばなかった。それだけのことなので、失敗としてすら計上されない。
もちろん、限られた時間をどう使うか、シビアな判断は当然必要ですが、仕組みを社会に入れる仕事には、そういう、成果になる前の時間が含まれているのだと思います。
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いま、アプリを開いて数タップでタクシーを呼べます。
外から見えるのは「パンデミックが後押しした」「キャッシュレスが後押しした」という面でしょう。
ただその手前にあった、いつ報われるかもわからなかった泥臭い部分を見逃すと、どうも熱をおびた実体をつかみ損ねる気がするのです。


