フランスは、優れた車をつくる国です。プジョー、ルノー、シトロエン。自動車産業に深い蓄積を持ち、エンジニアリングへの誇りもある。
それなのに、フランスの高速道路網の発展は、他のヨーロッパ諸国と比べて必ずしも急速ではありませんでした。なぜか。よく言われる理由のひとつに、一般道の質が高かったことがあります。
フランスには、ナポレオン時代から整備が続けられてきた幹線道路のネットワークがあります。街と街をつなぐ国道は、手入れが行き届いていて、風景も良く、走ることそのものが旅の一部になっている。既存の道が十分によく機能していたから、高速道路を急いで整備する必然が、相対的に弱かった。そういう見方があります。
この話を聞いたとき、道路のことより先に、別のことが頭に浮かびました。
優れているから、変わる渇きが生まれない
変化が起きないことを、私たちはすぐに「遅れている」「保守的だ」と見なしがちです。新しいシステムを使わない。新しいやり方に移行しない。なぜ変えないのかと、外から不思議に思う。
ただ、フランスの道路の話が示しているのは、そこに別の読み方があるということです。変わらないのは、変化が必要だと感じられていないからかもしれない。そして、変化が必要だと感じられていないのは、既存の仕組みが十分に機能しているからかもしれない。
古い道が走りやすければ、人は新しい高速道路に乗り換えません。これは怠惰でも抵抗でもなく、合理的な判断です。コストをかけて慣れない道を覚えるより、走り慣れた道を使い続けるほうが、多くの場面でうまくいく。変化しないことにも、それなりの理由があります。
逆に言えば、既存の仕組みが優れているほど、新しい仕組みへの渇きは弱くなります。そして渇きのないところに、どれほど優れた新しい仕組みを置いても、それは選ばれにくい。
ExcelとDXの話
これと同じことを、仕事の現場でよく見ます。
いわゆるDXの文脈で、現場のExcel管理や紙の帳票、電話や対面での確認、根回しを経た意思決定、そういったものが「古い」「非効率だ」と見なされることがあります。新しいシステムを入れれば解決するはずだと。
しかし、多くの場合、それらは単純に古いわけではありません。Excelは柔軟です。現場ごとに異なる例外を、その場で処理できる。紙の帳票は、誰でも使えて、電源も要らず、書き込みができて、物理的に手渡せる。電話と対面は、文脈を共有しながら確認を取れる。根回しは、意思決定のリスクを事前に分散する機能を持っています。
それらは、現場の複雑さや不確実性に、長い時間をかけて適応してきた仕組みです。外から見ると非効率に見えても、その中には現場の信頼関係と例外処理の蓄積がある。簡単には可視化されない、しかし確かに機能しているものが、そこにあります。
だから、新しいシステムを置いても使われない。Excelが担っていた柔軟性を引き受けられない。紙が持っていた即時性を超えられない。電話の温度感を再現できない。既存の道が担っていた機能を読まずに新しい道を引いても、人はそちらに移らない。
古い道を、なぜ走るのかを見る
新しい仕組みをつくる立場から見ると、既存のやり方はどうしても「超えるべき対象」に見えます。しかし、設計者が最初にすべきことは、おそらく超えることではありません。読むことです。
なぜ、その古い道が今も選ばれているのか。誰が、どんな場面で、どんな理由で使っているのか。それが担っている機能は何か。その機能の中に、新しい仕組みがまだ引き受けられていないものはないか。
変わらない理由の中に、合理性があります。その合理性を丁寧に読まないと、新しい仕組みはその隙間を埋められません。「古い」から「新しい」へ、というシンプルな時間軸の話ではなく、ある機能がどこで、誰によって、なぜ担われているのかという、もう少し地に足のついた読みが必要です。
フランスの話に戻れば、高速道路がなかったのではなく、一般道が担っていた機能に対して、高速道路が明確な優位を示しにくかった、ということです。その後、都市間の移動需要が変わり、物流の規模が変わり、高速道路の必然が積み上がるにつれて、整備も進んでいきました。変化は、必然が育ったときに起きました。
新しい必然を、設計する
変化を起こすとは、古いものを否定することではないと思っています。既存の合理性を理解した上で、それを上回る新しい必然を設計することです。
人を説得して変えようとするより、そちらを選ぶほうが自然になる環境をつくる。古い道を批判するより、新しい道がなぜ走りやすいのかを、行動の地形として整える。渇きを人に感じさせようとするより、渇きが自然に生まれる状況を設計する。
それは、正しい方法を教えることではありません。人が自分の判断で動いたとき、気がついたら新しい仕組みの上にいた、という状態をつくることです。
優れているものほど、変わるのが遅くなる。これは問題ではなく、観察です。その観察を出発点にして、どんな新しい必然を設計できるか。設計者に問われるのは、そこではないかと感じています。


