事業の浮沈を、外からどこまで感じられるか
先日、あるクライアントから、こんな言葉をもらいました。 コンサルタントは、事業が潰れるかもしれないというヒリヒリ感は分からないですよね。 意地悪な批判ではありませんでした。事業を長く背負ってきた人の、率直な実感でした。
先日、あるクライアントから、こんな言葉をもらいました。 コンサルタントは、事業が潰れるかもしれないというヒリヒリ感は分からないですよね。 意地悪な批判ではありませんでした。事業を長く背負ってきた人の、率直な実感でした。
組織の論理は、内側にも染み込む 前回の記事で、AIが組織の意思決定や実行に入り込もうとすると、便利かどうかではなく、権限・責任・判断の構造とぶつかる、という話を書きました。 今回は、その続きとして、少し視点を内側に向けたいと思います。
企業のAI導入は慎重に進む一方で、現場の個人はすでにAIを日々の仕事で使い始めています。この「慎重な組織」と「速く試す個人」のズレを、組織学習の機会に変えるにはどうすればいいか。AI活用コンテストの意義と、その先に設計すべき「観察と翻訳の仕組み」について考えます。
AIは経営者の片腕になるのか 最近、意思決定とAIの関係について、いくつかの会社の経営者に話を聞く機会がありました。 こちらが持っていた仮説は、比較的素直なものでした。経営には複雑で曖昧な判断がつきまとう。
安宅和人さんのポストと、スウェーデンの研究者たちによる論文「Same storm, different boats」をほぼ同じタイミングで読みました。 論文は460万件の求人データを分析し、こんな事実を示しています。
タレブの『反脆弱性』という本を、最近少しずつ読んでいます。
癖の強い本です。文章も、主張も、ところどころかなり強い。けれど、読み進めていると、妙に残る考え方があります。
反脆弱性。
壊れにくい、という意味ではありません。
壊れにくいものは、ただダメージに耐えるものです。揺れても倒れない。叩かれても壊れない。もちろん、それも強さの一つです。
けれど反脆いものは、少し違います。
揺らされることで、むしろ強くなる。傷つくことで、次の変化に適応していく。小さな失敗や摩擦を取り込みながら、かえってよくなっていく。ヒュドラの首が1本切れたら2本生えてくるように。
そんなタレブの考え方に触れながら、とくに組織運営に関する部分が印象に残ったので少し考えを残しておきます。
ここで「組織はもっと大胆であるべきだ」といった、外側からの勇ましい話をしたいわけではありません。
実際に組織を動かす側にいると、大胆さだけでは済まない現実がいくらでもあります。
方針を変えると、関係者への説明が必要になります。
既存の計画との整合を取らなければならない。
予算や人員の再配置も起きる。
誰に、どの順番で、どう伝えるかも考えなければならない。
ひとつの判断を変えるだけでも、その背後には多くの調整が発生します。
だから、組織の中で慎重になることは、決しておかしなことではありません。むしろ、その場にいれば当然の感覚だと思います。
説明責任を果たすこと。
関係者の納得を得ること。
余計な混乱を起こさないこと。
既存の約束を乱さないこと。
限られた予算と時間の中で、できるだけロスを少なく進めること。
どれも、その状況においては十分に正しい。
組織の中で慎重に判断している人たちを、外側から悪く言ったり、下に見たりすることには意味がないと思っています。そこには、そこで働く人たちの現実があり、その状況なりの正しさがあります。
ただ、その正しさを内側から眺めていると、別の危うさも見えてきます。
運営上のコストがよく見えすぎると、大きく向きを変えることに躊躇が生まれます。
いま大きく方針を変えれば、相応の混乱が起きる。
うまくいかなかったとき、説明が必要になる。
戻すにも手間がかかる。
関係者を巻き込んだ以上、簡単には「やっぱり違いました」とは言いにくい。
そう考えると、人は自然に、いちばんロスの少ない道を選ぶようになります。
誰かが強く止めたわけではない。
誰かが「挑戦するな」と命じたわけでもない。
それでも、気づくと摩擦の少ない道が選ばれている。
自分たちで決めているようでいて、実際には、状況に決めてもらっている。
説明しやすいほうへ。
合意を取りやすいほうへ。
あとから責められにくいほうへ。
その選択は、一つひとつを見ると、たぶん間違っていません。
けれど、それが続くと、組織はだんだん「大きく試す」ことから遠ざかっていきます。
タレブの議論に引き寄せて考えるなら、ここに中央集権的な安定の危うさがあるのだと思います。
中央で方針を決め、全体を揃え、計画通りに進める。
それは平時には、とても合理的に見えます。
内部的な説明もしやすく、資源配分もしやすい。全体として何をしているのかも語りやすい。
組織が大きくなればなるほど、そうした安定は必要になります。誰もが好き勝手に動けばよい、という話ではありません。
ただ、波が大きくなると、その安定は別の顔を見せます。
中央が状況を読み切れなくなる。
現場の小さな違和感が、方針に反映されるまでに時間がかかる。
一度決めた計画を変えるコストが高くなり、変えたほうがよいと分かっていても、変えにくくなる。
つまり、平時には「安定」として機能していたものが、変化の大きい時代には「慣性」になります。
これは、「波が来れば揺れる」というだけの話ではありません。
むしろ怖いのは、中央集権的な安定が、波を見えにくくすることです。
現場では、小さな変化が起きています。
顧客の反応が少し変わる。
使われ方がずれる。
以前なら通用した説明が、通用しなくなる。
自分たちが価値だと思っていたものの置きどころが、少しずつ変わっていく。
小さな違和感が、あちこちに出てくる。
けれど、中央で整えられた計画は、それらをすぐには扱えません。
なぜなら、小さな違和感は、説明しにくいからです。
まだ数字になっていない。
まだ失敗とは言えない。
まだ方針を変えるほどの材料ではない。
そうしているうちに、違和感は「ノイズ」として処理されます。
平時には、それでよかったのかもしれません。
ノイズをいちいち拾っていたら、組織は進まない。中央で決めた方針に沿って、多少の揺れを抑えながら進むほうが、効率がよい。
でも、環境の変化が大きくなると、ノイズの中にこそ次の兆しが混ざり始めます。
そのとき、中央集権的な安定は、組織を守る力であると同時に、兆しを捨てる力にもなってしまう。
タレブが繰り返し警戒している脆さも、こういうところに現れるのではないかと思っています。
よく言われる「べき論」は、
「波が大きいときこそ、強いリーダーシップが必要」
「迷いを断ち切り、中央が大きく方向を示し、組織全体を一気に動かすべき」
のようなものだと思います。
実際、その感覚はよく分かります。
不確実性が高いときほど、人は「決めてほしい」と感じます。方針が見えない状態は不安ですし、現場がそれぞれ別々に動けば、混乱も生まれます。だから、中央が状況を読み、強く進路を示すことには、確かに意味があります。
ただ、それでもなお、少し疑ってみたいのです。
波が大きいときに本当に必要なのは、中央がもっと正しく、大きく操舵することなのだろうか。
むしろ、そもそも大きく操舵しなければ変われない組織設計そのものが、波の大きい時代には脆いのではないか。
タレブの議論を借りれば、問題は「未来を読み切れないこと」そのものではありません。
未来を読み切れないにもかかわらず、中央が読み切れる前提で組織を動かしてしまうことです。
タレブのいう「反脆さ」を組織に引き寄せて考えるなら、むしろ、未来を読み切れないことを前提に、小さな単位で試せる組織が強い。
失敗しても全体が壊れない。
損失は小さく閉じる。
一方で、うまくいった試みは大きく育てられる。
そのためには、挑戦のすべてを中央承認の対象にしないことが重要になります。
現場の小さな違和感や仮説を、最初から全社方針や投資対効果の言葉に翻訳させると、試す前に生命力が失われてしまう。
階層が多く、小さな挑戦が上に上がる途中で丸められる組織は、平時には安定して見えます。
けれど波が大きくなると、現場の違和感を試す前に失っていく。
これは、脆い組織です。
では、どうすればいいのか。
まだ自分の中で完全に整理できているわけではありません。ただ、タレブの本を読みながら考えているのは、より強いコントロールではなく、もう少しゆだねることの重要性です。
小さな単位で試す。
現場の違和感を拾う。
いくつかの仮説を並走させる。
うまくいったものが自然に残り、合わなかったものが静かに消えていく。
全体を一つの方向に強く動かすのではなく、複数の小さな揺らぎを許し、その中から次の形が立ち上がるのを待つ。
そういう組織のほうが、揺れに強いのかもしれません。
「失敗を許容する文化が大事だ」とはよく言われます。
それはその通りです。ただ、言葉として「失敗してもいい」と言うだけでは、おそらく足りません。
もし失敗したあとに戻すコストが高いままなら、人は試しません。
もし方針変更の説明が重すぎるなら、人は最初から無難な案を選びます。
もし評価が短期の成果だけに寄っているなら、人はアップサイドよりも減点回避を選びます。
波の大きい時代に危ういのは、間違える組織ではありません。
間違える前に、試す芽を潰してしまう組織です。
小さく試し、小さく失敗し、うまくいったものだけが大きくなる余白を残しておくこと。
そのほうが、波の大きい時代には強いのだと思います。
今は、反脆い組織とは何かを考える、とてもよいタイミングなのだと思います。
波が大きくなり、仕事の前提や価値の置きどころが揺らぎはじめると、組織の脆さは表に出てきます。
どこで試す芽が潰れているのか。
どの違和感が、まだ言葉になる前に捨てられているのか。
そうしたものが、以前よりも見えやすくなる。
だからこそ今は、反脆い組織をどうつくるかを模索するには、素晴らしいタイミングなのかもしれません。
揺らぎが大きい時代だからこそ、揺らぎを消すのではなく、揺らぎから学ぶ組織をつくる。
中央が未来を読み切るのではなく、あちこちで生まれる小さな兆しを、次の形へ育てていく。
それは、単なる組織改革ではなく、これからの時代における「強さ」の定義を問い直すことなのだと思います。
中央集権的な安定は、平時には組織を強く見せます。けれど、波が大きくなると、その安定は、変化を受け止める力ではなく、変化を遅らせる慣性として現れることがある。
タレブの反脆弱性から受け取っているのは、おそらくこの感覚です。
強い組織とは、揺れない組織ではない。
小さく揺れながら、その揺れを学びに変えられる組織なのだと思います。
揺らぎを消すことで安定するのではなく、揺らぎを取り込みながら形を変えていく。
今、組織に必要なのは、揺れない強さではなく、揺れを取り込む強さなのかもしれないと感じています。
最近、自分で作ったClaude Skillsを使いながら、少し不思議な感覚を覚えています。
便利だな、というよりも、懐かしいな、という感覚です。
何が懐かしいのかというと、フィードバックの厳しさです。しかもそれは、表現やロジックに対する厳しさではありません。もっと手前にある、「ちゃんと現実を見たのか」という厳しさです。
何かをレビューしてもらうと、こちらが考えた仮説や改善案に対して、すぐに評価を返してくれるわけではありません。
むしろ、まず問われます。
それは本当に観察したのか。
事実に触れたのか。
一次情報はあるのか。
実際に使った人の反応を見たのか。
さらに、そこにはもう少し強い含意があります。
現実を見ていないのであれば、そもそもフィードバックには意味がない。
そのくらいの厳しさで、こちらの思考を押し戻してくるのです。
この感覚が、私には妙に懐かしく感じられました。
「一次情報に触れよ」という原則を登録したので、こう返してくれるのも当然といえば当然なのですが、言葉の強さも含めて、現代っぽくはありません。
昔は、こういうことを言う人がもう少しいた気がします。
「それはファクトなの?」
「その仮説は、観察から来ているの?」
そうやって、考える前に現実へ戻される。議論を始める前に、まず見に行かされる。フィードバックの場も、前提が整っていなければもってもらえない。
少し面倒で、少し怖くて、でも結果として仕事の質を支えていたような厳しさです。
最近は、そういうタイプのマネージャーがずいぶん減ったように感じます。
理由は分かります。強く言えば関係性が傷つく。場の空気も悪くなる。心理的安全性という言葉もあります。何より、厳しく問い続ける側も疲れます。
人間のマネージャーは摩耗します。
何度も「調査したのか」と言うのは、案外しんどいことです。言われた側の反応も受け止めなければいけません。だから少しずつ丸くなる。あるいは、最初から言わなくなる。
その点、AIは摩耗しません。
何度でも、淡々と聞いてきます。
観察したのか。
根拠は何か。
何が起きたのか。
しかも、それは人格的な圧としては受け取りにくい。人間に言われれば反発したくなることでも、AIに言われると、少し距離を置いて受け取ることができます。
ここに、AIによるマネジメントや助言の面白さを感じています。
AIは、答えをくれる存在として語られることが多いです。文章を書いてくれる。アイデアを出してくれる。実装を手伝ってくれる。もちろん、それは大きな価値です。
けれど今回感じたのは、また別の価値、「知的規律を、もう一度こちらに返してくる存在になりうるのではないか」という点です。
特にUXやサービスづくりの仕事では、本当に大事なのは、きれいなコンセプトをつくることだけではありません。むしろ、現実を見ることです。使っている人を見ることです。自分の思い込みが外れる瞬間に耐えることです。
その地味で、手間がかかり、時に痛みを伴う部分を、私たちはつい飛ばしてしまいます。
しかし、そこを飛ばしたままでは、どれだけきれいに考えても、それが本当に体験をよくするのかは分かりません。
AIが単に「もっとよい案」を出してくれるのではなく、そもそも案を評価するための材料が足りていない、と指摘してくる。考えの精度より前に、現実への接触量を問うてくる。それは予期しなかった面白みでした。
もちろん、AIの言うことをそのまま正解にする必要はありません。AIの指摘もまた、ひとつの仮説として扱うべきです。
けれど少なくとも、「調査していないなら判断できない」という当たり前の姿勢を、繰り返し突きつけてくれる存在としては、かなり頼もしい。
人間が失いつつある厳しさを、機械が別の形で補完する。
それは少し皮肉でもあり、同時に希望でもあります。
AIは、私たちの創造性を拡張するだけではないのかもしれません。
AIは私たちに、かつて仕事の中にあった規律を思い出させる存在にもなりえるのかなと感じています。
これから、UXデザインや企画、設計のような仕事に関わる人へ。
多少私も経験してきた期間が長くなってきまして、シェアしておきたいと思うこと、簡単にですが残してみます。
私は、社会人になったのは結構ゆっくりで、大学卒業後、1年ふらふらとしてから院に入り、その後卒業してからもすぐには就職せず、といった感じでした。
はじめて職についたのは、20代も後半になってからでした。
仕事を始めてからも、かなり長い間苦労をしました。
私は「手が動くところから始める」以外の仕事の仕方を知りませんでした。
何が問題なのか、何を解くべきなのか。
そういうことを積み上げて考える力は、まったく身についていませんでした。
だから、まず手を動かす。
手元にある資料を組み合わせて、それっぽく整える。
過去アウトプットをなぞり、近づける。
それが、当時の自分にできる最も“まともな仕事の仕方”でした。
今振り返ると、焦りもあったのだと思います。
手のかかる部下だと思われたくなかった。
ちゃんとできる、任せても大丈夫だと、早く示したかった。
焦って形にする。中身が煮詰まっていないまま手を動かす。
空転そのものです。
でもその焦りは、当時の自分にはあまり自覚できていませんでした。
あるとき、資料を作って上司に持っていきました。
時間をかけて、ちゃんと整えたつもりでした。
でも、その上司は、その資料を開くことはありません。
代わりに聞かれたのは、ひとつだけです。
「これは、何のために作ったの?」
うまく答えられないと、
「では、また次の機会に」と言われて終わる。
資料は、そのまま捨てられる。
そんなことを、何度も繰り返しました。
最初の1年くらいはその繰り返しだったように思います。
その後、その上司と会話したときに教えてもらったのですが、
「見たら負けだ」
と思っていたのだそうです。
中身を見てしまえば、どうしてもやってきた作業そのものにフォーカスがあたる。
結果、“整え方”の話になる。
それをやってしまうと、一番大事なところが置き去りになる。
当時はとてつもない不快さがありました。
作ったものを見てもらえない。
聞かれることは「目的は?」であることはわかっているのに、うまく答えられない。
そんな自分を呪いました。
やり方として、あの指導が正しかったのかは、今でもわかりません。
時代的にはミスマッチでしょう。
ただ、私が若いメンバーと仕事をするとき。
過去のプロジェクトを丁寧になぞり、フォーマットに当てはめ、その前提が合っているかどうかは疑わない、という過去の自分を見るような感覚になるとき、思うのです。
「楽をしようなんて思っていないことはよくわかる」
「でも、その無自覚な手軽さに走ると、必要な回路が育たないんだ」
形を整える前に、「これは何のためなのか」を考える。
フォーマットに沿って空欄を埋めるイージーな仕事であると定義しない。
(そういう仕事はあっていいのですが、そういう判断を都度する)
私は本当にゆっくりとした習熟のペースでしたし、上司にも大変な忍耐を強いました。
やるほうも見るほうも大変なのですが、それでも乗り越えるべき最初の壁だった気がします。
UXや企画の仕事は、「まだ形になっていないもの」を扱うことも多いです。
私の知る限り、前例をなぞればよいというものでもありません。
期限がある仕事なのでもちろん車輪の再開発をしている暇などありません。
ただ“それっぽく見えるもの”を作っているだけでは誰の足しにもならない。
私と同じようなところで引っかかる人がいたら、筋トレのようなものだと思って一定期間、「目的は?」と自分でやってみてください。
回路は、ゆっくりではあっても、やり続ければつながります。太くもなります。
素晴らしい活躍を祈ります。
これまで、「やわらかい設計」と名前を付け、関与の循環ついて考えてきました。
(過去投稿:やわらかい設計という考えについて)
(過去投稿:「やわらかい設計」のモデル化)
(過去投稿:「やわらかい設計」の適用例)
この視点を持つと、現場での熟達した指導者の語り掛けやサポートの仕方が、少し違って見えてきます。
たとえば、仕事の現場でこんなやりとりを見たことはないでしょうか。
部下が何かを相談したとき、上司がすぐに答えを出すのではなく、判断を相手に返すような関わり方をする。
どうすべきかを指示するのではなく、少し考えないと返せない投げかけをしたり、「自分はどう関わるのか」を考えさせるようなやりとりです。
以前、リクルート社にいた人から、こんな話を聞いたことがあります。
若い人材に大きな裁量を与え、強い起業家を数多く輩出してきた、あの独特のカルチャーの中で、上司はよくこう問いかけていたそうです。
「で、お前はどうしたいの?」
少し強い言い方にも聞こえますが、この問いが機能するとき、そこでは何かが起きています。
それは、決して上司の代わりに「考えさせている」ということではありません。
まず、それまで外にあった問題が、自分との関係として引き寄せられる。他人事ではなく、自分が関わる対象になる。
次に、関わり方が開かれる。何をすべきかが決められるのではなく、どう関わるかを自分で決める余地がある。
そして、その関与は実際の行動につながり、結果として何が起きたのかが返ってくる。
「お前はどうしたいの?」というフレーズは、しばしば精神論として語られることもありますが、このマネージメント技術の核は、関与の循環(Overlap – Engage – Act – Feedback)を起動している点にあると私は考えます。
重要なのは、この振る舞いをそのまま真似ることではありません。
「どうしたいの?」と聞けばよい、という話ではない。むしろ、その表面的な模倣は危険です。
この問いが機能するのは、その背後にループが回る機構が成立しているときだけだからです。
・関与してよいという前提がある
・行動の余地がある
・結果が返ってくる環境がある
これらがなければ、この問いは単なる上位者からの圧力になります。
ここで見えてくるのは、熟達した指導者の支援は、ただのコミュニケーションスキルではないということです。
関与の循環が回る環境をつくっている。
その結果として、あのような振る舞いが成立している。
問いかけのフレーズは関係性やシーンによって調整すればよく、大事なことは、関与が立ち上がるアーキテクチャになっているか。
その視点をもつことが大切に思います。
やわらかい設計とは、人の内側に働きかける技術ではありません。
関与が立ち上がり、循環する外側の環境を設計することにある。
その枠組みでみると、これまで職人芸のように語られてきた振る舞いの意味も、少しずつ見えてくるものがあると感じています。
生成AIの普及とともに、若手の育成についてある懸念が語られるようになりました。
AIが資料をつくり、整理をし、設計を補助する。
これまで若手が担ってきた作業が高速化されることで、「経験を積む機会」が減ってしまうのではないか。
下積みの場がなくなるのではないか。
もっともに聞こえる話です。
けれど一度、立ち止まって考えてみたいのです。
そもそも、私たちは何によって育ってきたのでしょうか。
若いころ、1ページのPPT資料を仕上げるのに、標準の何倍もの時間をかけていました。
そもそも目的は何かを何度も問われ、構成を何度も組み替え、図解の枠組みを何度も変え、言葉を差し替え、論理の飛躍を潰し、想定される反論を洗い出す。
その過程で、あり得る失敗、落ちるべき穴のすべてに落ちてきました。
思考なく先輩の資料をトレースしている。
目的が見えない。
そもそもスライドの質が低くて売り物にならない。
抽象的なレベルで気持ちよくなって、具体に踏み込んでいない。
言葉一つ一つを煮詰めていない。
・・・
何度も突き返されました。
振り返ってみると、あの時間が糧になったのは、単に「量をこなした」からではありません。
ただ手を動かしていた時間が、そのまま力になったわけではない。
本当に効いていたのは、ここまで検討しなければ通らない、ここまでチェックしなければ売り物にならない、という基準が、自分の中に立ち上がったことでした。
ある瞬間から、他人に言われる前に自分でわかるようになる。
まだ煮詰めが足りない。
ここは食い足りない。
飛躍がある。
このままでは売れない。
外部にあった基準が、内部に移る。
それが「質」だったのだと思います。
「量が質に転換する」という言葉があります。
たしかに、ある程度の反復は必要でしょう。
しかし転換が起きていたのは、単純な物理的量ではなく、外部の基準に何度も触れ、それを自分の内側に取り込む過程だったのではないでしょうか。
作業量そのものよりも、判断の密度が積み重なること。
もともと自分になかった基準が、徐々に内在化していく。
それが質に転換するという現象の正体だったのではと思います。
機械協働の時代に入り、作業の多くは高速化されつつあります。
情報整理も、構造化も、一定水準のアウトプットも、以前より短時間で到達できるようになりました。
これをもって、若手の機会が減ると考えるのは自然です。
ですが、もし育成の本質が「基準の内在化」にあるのだとすれば、作業の高速化は必ずしも機会の消失を意味しません。
AIは正解候補を出すことはできます。
チェックリストを提示することもできる。
しかし、どこまでやれば売り物なのか。どこで妥協しないのか。
その基準を自分のものにすることまでは、肩代わりできません。
そこには依然として、人間によって判断することが必要だと思っています。
時代的に「量が質に転換する」ところまで粘るような、体力勝負の育成アプローチは選びにくなっていたところに、機械協働という新しい環境が出現しました。
これは、育成面ではポジティブな面が多いのではと私は思います。
基礎作業は補助され、再試行の速度は上がり、一定水準への到達は早まっている。
だからこそ、作業の量に頼らず、判断経験をたくさん積むような設計ができる可能性が生まれてきたと思います。
若手にどれだけ手を動かさせるかではなく、どれだけ意味を問うか。
AIによる補助がある分、「なぜそれが価値になるのか」を問い続ける隙間がある。
機会は減るのではなく、質が変わる。
量をこなす時代ではなくとも、基準を内在化するチャンスは増えている。
そう考える余地は、十分にあるのではないでしょうか。