もともと私は、AIに人間の代わりをさせたいとは思っていませんでした。
ただ、自作のレビューボットを作り、実際に使い続けるうちに、「AIに何をやらせるか」という発想そのものに、少し違和感を持つようになってきました。AIと人間を、代行する側・される側として向き合わせる見方が、そもそも実態に合っていないのではないか、という感覚です。
最近は、もう少し違う見方をするようになっています。知を深めていくシステムがあり、その中に人間もAIも構成要素として存在している、という見方です。
知的システムの構成要素
たとえば、自分が普段やっていることを並べてみると、こんな感じになります。
- 観察する
- 違和感を感じる
- 本を読む
- プロトタイプを作る
- 誰かと議論する
- ブログを書く
- レビューボットを使う
これらをひとつひとつ見ると、特別なことは何もありません。ただ、改めて並べてみると、どれも「知を深める」という一つの営みを支える構成要素になっていることに気づきます。観察したことが違和感になり、違和感を確かめるために本を読み、読んだことをプロトタイプに落とし、それを誰かと議論し、ブログに書くことで自分の中で整理し、レビューボットに投げることでまた別の角度が見つかる。
レビューボットも、この並びの中のひとつにすぎません。特別に上位の存在ではなく、観察や読書や議論と並ぶ、システムの一部です。
少しだけ具体的に言うと、私はClaude Skillsに、自分がこれまで仕事の中で大事にしてきた判断基準やナレッジを書き出し、それをもとにしたレビュアーBotをいくつか作っています。
たとえば、プロジェクト管理領域、画面設計の領域、調査の領域をそれぞれ見るBotです。
プロジェクト管理を見るBotはそもそも成果物を作ること自体が目的化していないかといった骨太な視点を提示し、画面設計を見るBotはユーザがその状況で自然に動ける流れになっているかを問いなおし、調査を見るBotは事実と解釈と仮説が混ざっていないかを確認してくれます。
どれも、正解を返すためのBotではありません。むしろ、自分が普段レビューで見ている観点を、仕事の途中で何度も呼び出せるようにしたものです。
AIが考えることより、システム全体の設計が大事
この見方に立つと、重要なのはAIが何を考えるか、ではなくなります。
大事なのは、人間の想像力や発見の力が最大限活きるように、システム全体をどう設計するか、ということです。
そう考えると、人間の役割はむしろはっきりしてきます。
現実に触れること。違和感を感じること。何かに執着を持ち続けること。何かがおかしいと気づくこと。
これらは、AIに代わってもらえる役割ではありません。今のところ、これらは依然として人間側にある役割だと思っています。AIがいくら賢くなっても、この部分が人間の役割であることは、当面変わらない気がしています。
だから、私が作っているレビューボットは、結論を出すことを目的にしていません。成果物を出すときには、同時に次のようなものも返すようにしています。
- 弱い前提
- 未検証の部分
- 人間が判断すべき論点
これは、AIに仕事を代行させるためではありません。人間側の検討や発見が、その先も続いていくための設計です。
実際に使っていると、価値があるのは、Botが賢く答える瞬間だけではありません。むしろ、Botが出した案に対して、自分の中に「何か違う」という感覚が立ち上がることがあります。
その違和感を返すと、Botが論点を絞り直す。こちらが前提を更新する。さらにBotが構造を組み替える。そうした往復の中で、最初は曖昧だった違和感が、少しずつ言葉になっていきます。
この過程が、思っていた以上に大事でした。
AIをどう使うか、ではなく
「AIをどう使うか」という問いは、AIを道具として人間の外側に置く問いです。それも一つの問いだとは思いますが、最近の自分の関心は、少しずれてきています。
人間を含んだ知的環境を、どう設計するか。
レビューボットも、観察も、読書も、議論も、ブログを書くことも、すべてその環境の一部です。どれかひとつが主役になるわけではなく、それぞれが互いに違和感や視点を持ち込みながら、知が少しずつ深まっていく。
最近は、そういう見方をするようになっています。
AIに知的作業を代行させるのではなく、知的検討が進む場をつくる。
今のところ、私がレビューボットを作りながら試しているのは、そういうことなのだと思います。


