自動化のあと、人間に何が残るのか
自動化のあと、人間には何が残るのか。この問いを、私たちは40年前も、いまも、変わらず考え続けています。Lisanne Bainbridge が1983年に書いた「Ironies of Automation」という論文も、その問いの記録の一つです。発電所とコックピットの、古い話。けれど問いそのものは、少しも古びていません。
まず、この論文が何を言っているのかを、簡単に紹介します。
人を消そうとして、人が残る
自動化の狙いは、はっきりしています。人間がやっていた制御や計画や問題解決を、機械に置き換える。人間は遅く、ばらつき、疲れる。だから、任せられるところは任せる。
ところが、置き換えても人間は消えません。どれだけ高度に自動化しても、システムは監視され、調整され、保守され、改善される必要がある。つまり最後まで人間と機械で出来上がるシステム、であり続ける。機械だけで閉じることは、ないのです。
では、そのとき、人間側にどんな仕事が回ってくるのか。
Bainbridge の観察は、少し意地悪です。
設計者は、人間を信頼できないもの、非効率なものとみなして、できるだけ追い出そうとする。けれど、追い出しきれない。
結局、設計者が自動化の仕方を思いつけなかったものだけが、人間の手元に残る。
人間の仕事は、人間のために設計されたのではなく、機械に任せそこねたものの寄せ集めとして決まってしまう。
40年前の答えは、皮肉だった
こうして人間に残るのは、だいたい三つの姿でした。
一つ、オペレーターに「なりさがる」。
かつて自分で担っていた制御の、機械がやりきれなかった切れ端だけを引き受ける。
二つ、低頻度の異常をじっと見張るだけの人になる。
平常時はただ見張り、異常時に呼び戻される。
三つ、システムに組み込みきれなかった不明瞭な仕事が、支援もないまま手元に落ちてくる。
Bainbridge は、これを皮肉として書きました。制御システムが高度になるほど、人間の貢献はかえって重要になる——けれど、その重要さは、押し付けられた難しさとしてやってくる。だから、皮肉。
でも、なぜ皮肉にしかならなかったのか。私は、ここで立ち止まりたいのです。
理由は、たぶん一つです。Bainbridge は、人間を最後まで下流に置いていました。機械が処理しきれなかったところに、人間を置く。その配置のままだと、優秀なシステムほど人間に難しいものを押しつける、という捻れが必ず出る。下流に置いたから、皮肉になった。皮肉という書き方に、するしかなかった。
でも、いまもそうなのか
40年前も今も、結論は同じなのか?というと、私は、違うと思っています。
私たちはいま、日々暮らす環境が、自動で生成されるパラダイムに入りつつあります。
「タッチポイント」と呼ばれる生活を支える画面群は、自分のために最適化されて現れる。
まさに自動化が隅々までいきわたってきつつある。
そこで残る人間の仕事とは何なのか。
40年前に Bainbridge が描いた「自動化の皮肉」は、人間が下流に置かれたときに起きる問題でした。
それを、変えてみる。
人間を、上流に置いてみる。
すると、さきほどの三つの皮肉が、違った形で浮かび上がると私は考えています。
上流に置けば、三つの仕事になる
自動化の後、何が残るのか。
私は、人間に三つの仕事が残ると考えています。
一つ目は、どう生成してほしいか、方向を示す仕事です。
生成器は、必ず何かに向かって最適化します。
何を良いとし、何を絶対に削らせないか。それを決めるのは、生成器ではありません。人間です。人間は、生成される方向を定める。願いをもつ、と言ってもいい。
40年前にオペレーターに「なりさがる」と言われていた人間は、方向を決める人という仕事をするようになります。
二つ目は、まだ形になっていないインプットを、システムに運び込む仕事です。
生成器は、情報になったものしか材料にできません。だから、まだ言葉になっていない摩擦に触れて、それをシステムが読める形にして渡す仕事が要る。
「知らないことも知らなかった」という気づきを、システムに届く形にして手渡す。
40年前は、システム化できない不明瞭なものが人に押し付けらる、と言われました。これからは、不明瞭なものを、人が自分で拾って運び込む。それが人間の仕事になります。
三つ目は、行き過ぎを補正する仕事です。
生成と学習を備えたシステムは、放っておくと行き過ぎます。しかも、その速度は上がっている。
だから、過剰の兆候を見つけて、戻す。
これは、ただ低頻度の異常を見張る仕事とは違います。
40年前の「監視」は、異常を見つけて誰かを呼ぶだけでした。
今の「補正」は、戻す力をあらかじめシステムに仕込み、調律し続ける能動的な仕事です。
違いは、下流か、上流か
40年前と今とでは「Automation」のレベルが違う、同じように扱ってよいのかという議論はもちろんあるでしょう。
ただ私が強調したいのは、時代の変化はあれど、人間を下流に置くか、上流に置くかによって、システムと人間の関係が別物に変わるということなのです。
下流に置けば、押し付けられ、見張らされ、オペレータに「なりさがる」。
上流に置けば、方向を示し、新しい気づきを運び込み、能動的に補正する。
置き場所を変えれば、皮肉など入り込まず、新しい仕事として定義できる。
自動化のあと、人間に何が残るのか。
暮らしの環境、足元の地形が自動的に生成される時代に、UXデザインとは何になるのか。
それは、「生成の方向を示し」「形にならないものを運び込み」「行き過ぎを戻す」ということになるのだと私は考えています。


