最近、青木淳さんの『フラジャイル・コンセプト』を読みました。
細かい紹介はしませんが、一箇所だけ、長く自分のなかに引っかかっていたものが、少しほどけた場所がありました。
「この案のコンセプトは何ですか、と聞かれるたびに腹が立つ」という趣旨の話です。
最初から完成したコンセプトがあるのではない。
はじめは曖昧な感覚や方向性しかなくて、作っては試し、寄り道をし、戻りながら進むうちに、コンセプトそのものが少しずつ形になっていく。
おおよそ、そういうことが書かれていたと思います。
読みながら、自分が長いあいだ実務で感じてきた「コンセプトワーク」なるものにもっていた違和感の正体が、少しだけ見えた気がしました。そうなのです、コンセプトは何ですかといわれると、答えなければと思いつつもそんな雑な振りにこたえる筋合いなどないという気持ちにもなる。
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一般に、「コンセプトを決めてから、具体化する」という順番で語られることが多いと思いますし、それは筋の通った話とも思います。上流でしっかり考え、下流はそれに従って形にしていく。
整理された言い方ですし、否定するつもりもありません。
ただ、私の感じていた気持ち悪さは、この考え方があまりに強くなると、後の工程が「最初に決めたコンセプトを、いかに損なわずに実装するか」というゲームになってしまうことだったのだと思います。
決めた像は正しい、という前提があって、あとは、それをどれだけ純度を保ったまま形にできるか。
うまくいかなければ、それは劣化であり、妥協である、と。
けれど、実際に作っていると、現実はたいてい、こちらの想定を少しずつ裏切ってきます。
使う人の反応。運用の都合。技術の制約。組織の事情。
そして、作っている途中で偶然見つかる、思ってもみなかった良さ。
こうしたものは、最初に立てたコンセプトの外側からやってきます。
純度を守るゲームのなかでは、これらはただの邪魔、想定を乱すノイズに見えてしまいます。
ただ、これらを本当にノイズと呼んでいいのか。
絶対に違う。
コンセプトが正しくて現実が間違っている、というスタンスにもつながりかねない危うさが、どうにも居心地が悪かったのだと思います。
同じものを差し出しても、相手が立っている場所によって、それが役に立つかどうかは変わります。
良かれと思った提案が、まったく響かないこともある。
見せ方を少し変えただけで、急にありがたいものになることもある。
そういう瞬間に出会うたびに思うのです。
コンセプトめいたものが現実にぶつかって一度崩れたことで、ようやく「本当に効くかたち」が見えてきたのではないか、と。
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最初にもったアイデア、方向性のようなものと現実とのズレは無視すべきノイズではない。それはむしろ、コンセプトを鍛えるための材料だと思います。ぶつかって崩れるたびに、どこが弱かったのかがわかる。曖昧だった方向性に、少しずつ芯が通っていく。
もちろん、信念を持つことは大切です。
ただ、それがあまりに強くなってしまうと、うまくいかないのは「相手が分かっていないから」とか「現実のほうが、まだ追いついていないから」となる。それは、意味あるものをつくることから離れていくように感じます。
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コンセプトづくりという、考えたり惑ったりしてきた様々なものを煮詰めて、純度高く言葉にするという仕事はタフで、常に不快さがともないます。
だからそれをやらないということではなくて、当然やる。
ただそれは、最初から言い当てるものでもなく、現実によって何度も崩され、そのたびに作り直され、少しずつ強くなっていく類のものでもある。
曖昧なまま歩きはじめて、途中で何度もつまずいて、そのつまずきから、自分が本当に作りたかったものの輪郭を、少しずつ知っていくという仕事をコンセプトワークというのであれば、私には何の違和感もない。
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コンセプトが先にあって作るのではなく、作ることを通して、コンセプトに出会っていく。
そういう順番も、あっていいのだと思います。


