ダニエル・カーネマンらの『NOISE』を読んでいて、線を引いた箇所があります。
意思決定の任にある人たちは、自分の直感の声に耳を澄ますことが大好き
少し笑ってしまいました。自分含め、心当たりがあったからです。
経営者の多くは、直感や勘、判断力と称するものに頼って意思決定をしている。とくに年齢が高く、経験豊富な人ほどその傾向が強い。ただし、本人が感じている確かさに、説明できる理由の裏付けはない。本書が紹介する研究の言葉を借りれば、「自分にはわかっている。だがどうしてわかっているのかはわからない」。
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実際に部下の資料をみていて「危うい」という勘が働くことはあるのです。頭より体が先に動くような。説明を飛ばして先にアラーム音が頭に鳴るような。二十年以上この仕事をしてきて、そういう瞬間は確かに増えました。
そして、その感覚は気持ちがいいのです。
確信がありながらも言葉になっていない部分を自分なりに翻訳することにフォーカスするというのは、答えの見えない苦しい作業とくらべると楽です。
しかも年齢を重ねた今なら、自分が感じた危うさに対して、周りもそれなりに耳を傾けてくれることが多いです。
答え合わせは、数年後にやってくる
困ったことに、その合図が正しかったかどうかは、その場ではわかりません。
目の前のプレゼンを乗り切るということであればそのアラーム音はそれなりに正しいことが多いのですが、事業判断のようなその場で正誤がはっきりとはわからないものについては数年経たないと正解だったか分からないのです。
採用がわかりやすい例です。面接で少し引っかかりを感じながらも「この人なら大丈夫」と採った人が、驚くほどフィットしたこともあれば、しなかったこともあります。入ってからの評価も同様で、抜擢して大きく伸びるメンバーもいれば苦しんだり疲弊してしまうメンバーもいました。
プロジェクトでも同じです。自信をもって立てた仮説でも、調査してみれば大きくずれていたこともあります。企画が通って走り出したあとに、その時のマーケットと合わない、実力と合わないなどで歪んでいくこともありました。
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直感がどんな条件で信頼できる技能になるかについては、カーネマン自身が、直感を重んじる立場の研究者ゲーリー・クラインと共同で整理しています。(Kahneman, D., & Klein, G. (2009). “Conditions for intuitive expertise: A failure to disagree.”)
二人の結論はおおむね一致していて、直感が磨かれるのは、環境に一定の規則性があり、判断の結果がすぐに返ってきて学べる場合です。チェスの指し手や、火災現場の指揮官がそれにあたります。
サービスや事業の判断は、その逆の環境にあります。結果が返ってくるのは数年後で、しかも市場の変化や他の施策の影響が混ざっている。うまくいったのが判断のおかげなのか、たまたまなのかも、はっきりしません。
論文には、短期の仕事では自信を裏づける手応えが十分に返ってくる一方で、長期の判断の失敗は「遅く、まばらで、曖昧にしか」返ってこない、という指摘もあります。答え合わせが遅い環境では、直感は磨かれないまま、確信だけが積み上がっていきます。
経験を重ねた人ほど直感を頼りにするのは、直感が正しくなったからではなく、確信することに慣れたからなのかもしれない。
自分を重ね合わせて考えると、笑っていられません。
では、AIの案を承認すればいいのか
『NOISE』は、測定器としての人間がかなりばらつくことを強く主張します。同じ案件でも、誰が判断するか、いつ判断するかで結果が変わる。本書は、予測に限っていえば、単純なルールやモデルが専門家の判断を上回る例を数多く挙げています。
だとすれば、これからは直感をしまって、AIの提案を承認していけばいいのでしょうか。正答率だけを比べれば、私の直感よりAIのほうが当たる場面は多いと思います。
それでも、素直に「はい」とは言えません。
現時点の考えを少し書いてみます。
判断は、実行と切り離せない
『NOISE』が多く扱うのは、罪を犯した人の量刑、保険の査定、診断などです。そこでは、同じ事例を同じ基準で評価するはずなのに、判断する人やタイミングによって結果が変わることが問題になります。
事業やサービスの判断は、少し違うように思います。この方向でいくと決めたあとに人が動き、手を入れ、うまくいかないところで粘る。そうすることで、結果のほうがつくられていく。同じ判断でも、やり切るチームと半信半疑のチームでは、結果が変わります。
これは「当てる判断」ではなく、「当たるようにする判断」と言えるのではと思います。
先ほどの採用やプロジェクトの話も、たぶんこちらに近いのだと思います。採った人がフィットするかどうかは、採ったあとに周りがどう関わるかで変わる。企画が通った後歪んだのも、判断が外れたというより、歪みを再補正しきれなかったことを悔やむべきなのかもしれないと思っています。
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最初に触れた、意思決定の任にある人の「直感」は正しさの証拠にはならないかもしれません。それでも、人を動かし、途中の逆風の中でもやり切らせる力にはなる。
AIの案をそのまま承認するとは、自分で当てにいったわけでもなく、当たるようにやり切る覚悟を固めたわけでもない。検証も確信もないまま、判断したことになってしまう。当たるかどうか以前に、これは望ましい状態ではないと私は思います。
「当てる」はAIに寄せ、「引き受ける」は手元に残す
暫定解ではありますが、「普通にいけばどうなるか」という予測と、「そのうえでどうするか」という判断はやはり分けるのだと思います。
選択肢を洗い出す、過去のデータから見通しを立てるというのは私の直感よりAIや仕組みのほうが確かです。ここは自分の確信を疑うための材料として、積極的に使ったほうがいい。
ただそのうえで、どれでいくかを決め、実行の中で起きることを受け止め、途中で直し、なんとか向こう岸まで泳ぎ切るというのは外に出せません。人間のほうが賢いからではなく、判断と実行が一続きになっているからです。
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直感の声に耳を澄ます人たちを、笑う気にはなれません。私もその一人だからです。
ただ、その直感の声が教えてくれるのは「これが正しい」ではなく、「これなら引き受けられる」なのだと捉えるのがよいのかなと感じています。


