友人に鍼灸師がいます。
先日、その友人とゆっくり話す機会がありました。
鍼の世界には、非常に古い時代に書かれた教科書のようなものがあるそうです。数百年、場合によってはそれ以上前の知恵です。
ただ、と友人は続けました。
当時と現代では、人間を取り巻く前提があまりに違う。
昔の人は、50代、60代以降も現役で働き続けることは稀でした。70代、80代、90代まで生きる人はごく少なかった。栄養状態が違う。労働環境が違う。身体の使い方そのものが違う。一日の中で身体にかかる負荷の種類も、蓄積するストレスの質も、まるで違う。
にもかかわらず、その古い体系を、権威としてそのまま受け入れてしまう人がいる。「書かれていることが正しい」のではなく、「古くから書かれていることだから正しい」という態度になってしまう。それはもう知恵ではなく、迷信に近い。
「今の自分で実験しないとわからないもんだよ。そうしないと確信もてない」と友人はそう話していました。この話が、ずっと頭に残っています。
敬意を持つことと、教義として信じることは違う
誤解のないように書いておきたいのですが、これは「古い知識は使えない」という話ではありません。友人自身、古典から多くを学んでいますし、そこに含まれる観察の鋭さに深い敬意を持っています。私もそうです。
ただ、敬意を持つことと、教義として信じることは違います。
どんな知にも、それが生まれた背景があります。どんな時代に、どんな身体を持った人々の、どんな生活を前提にして、その知が編まれたのか。その前提が変われば、同じ知恵でも効く場所が変わります。意味が変わります。ときには、害になることすらある。
問題は、知恵そのものではありません。知恵が成立していた前提を問い直さないまま、そのまま適用してしまうことが問題です。そして体系化された知は、時間が経つほど安定し、疑いにくくなる。古典に権威が宿るのは自然なことですが、権威があるからといって、前提まで正しいとは限りません。
UXの文脈なら、例えばヤコブ・ニールセンの経験則を疑う
私がUXに関わる仕事を始めたころ、ヤコブ・ニールセンのユーザビリティヒューリスティクスは、教科書そのものでした。NNGの有料レポートが出るたびに競うように読んだことを覚えています。
ユーザビリティを語るなら、まずニールセンを読め。それは通過儀礼のようなものでしたし、実際、そこから学んだことは多い。今でもUXの礎であり、学ぶ価値のある知恵だと思っています。
ただ、問い直したいのは、「それは今でも重要か」ではありません。「それがかつて担っていた役割は、いまも同じなのか」です。
2000年前後、PCやWebに向き合う時間は限られていました。ブラウザを開くこと自体がひとつの行為であり、画面上の情報をひとつずつ読み、リンクをたどり、目的の場所にたどり着く。その過程で、いまシステムがどういう状態にあるのかが見えること。間違えても戻れること。操作に一貫性があること。エラーを未然に防げること。ユーザーが迷わないこと。ニールセンのヒューリスティクスは、そうした環境の中で、人間が機械に振り回されないための切実な知恵でした。
一方、いまの若い世代は、生まれたときからディスプレイに囲まれて育っています。スマートフォン、タッチスクリーン、動画、SNS、複数デバイスの同時使用。それらは特別な道具ではなく、空気のように当たり前の環境です。操作感覚が違う。注意の向け方が違う。情報の探し方が違う。画面との距離感そのものが違う。
ニールセンの知恵が生まれた時代の「人間とコンピュータの関係」と、いまの「人間とマシンの関係」は、もう同じではありません。だとすれば、その知恵が担っていた役割も、同じままではないはずです。
さらにいえば、UIの基本水準は次元が違うほどに上がっています。
かつて、状態が見えるか、戻れるか、一貫性があるか、エラーを防げるか、ユーザーが迷わないか。こうした問いは、専門家が声を大にして投げかける必要がありました。それを意識しなければ、使いにくいプロダクトが平気で世に出ていた時代です。
しかし現在は、OS、アプリストア、デザインシステム、UIコンポーネントライブラリ、フレームワーク、そして広く共有されたUIパターンが成熟しています。一定以上のプロダクトでは、かつて専門家が強く問うていたことの多くが、「最低限の標準」として組み込まれるようになりました。
底が上がったことで、30年前に最前線の問いだったものが、いまは基礎品質になっている。にもかかわらず、いまだにその問いをかわらず最前線の問いとして扱い続けると、本当に問うべきことに手が届かなくなる。
問いは、少し別の場所に移っている
では、いま本当に問うべきことは何でしょうか。
そのボタンが分かりやすいかどうか、だけではなく、そもそもその行動を生活者はしたいのか。その導線が迷わないかどうか、だけではなく、その導線に乗る理由があるのか。
UIが使いやすいかどうか、だけではなく、その仕組みがいまの生活の地形に合っているのか。
エラーが少ないかどうか、だけではなく、そのサービスが人の現実に接続しているのか。
UIの品質が重要でないと言いたいのではありません。それは当然重要です。ただ、標準水準が上がったからこそ、そこで止まると問いが小さくなる。「使いやすいか」はクリアした上で、「そもそもこれは、いまの現実に対して意味があるのか」まで踏み込めるかどうか。問いの重心が、少し移動しているのだと思います。
ニールセンのヒューリスティクスが間違っているのではありません。ただ、それが生まれた時代に担っていた役割と、いまそれが担うべき役割は、同じではない。前提が変わったのに、問いの立て方だけを据え置くなら、それは敬意ではなく、思考の停止です。
知恵は、古いから迷信になるのではない
知恵は、古いから迷信になるのではありません。現実との接続を失ったときに、迷信になる。新しい知識であっても、前提を検証せずに権威化すれば、同じことが起きます。問題は古さではなく、接続の有無です。
何かを学ぶとき、体系を身につけることはとても大事です。型を知ること、先人の知恵を受け取ること、正しいとされるやり方をまず一度なぞってみること。それは出発点として間違っていません。
ただ、環境が変われば、問いも変わります。かつて有効だった知恵の扱い方を変えないといけないシーンもあるでしょう。その変化に気づけるかどうかは、受け取った型を現実にぶつけてみることでしか確かめられません。
友人の鍼灸師が言っていたことは、結局こういうことだったのだと思います。古い教科書に書かれていることが間違っているのではない。ただ、それが書かれた時代の身体と、いまの時代の身体は違う。その違いを見ようとせずに、書かれていることをそのまま信じるなら、それはもう知恵ではなく迷信です。
単に権威化された知を疑え、と言いたいわけではありませんが、安定した知のパッケージに安住すると、知らないうちに迷信に頼っているような状況にもなりうる。
その危うさを自覚しておきたいと思っています。


