これまで、私は20年以上同じ会社、同じ実務経験を共有する共同体の中で仕事をしていました。
その中では、「ジャーニー」「ペイン」「体験設計」といった言葉の定義を、いちいち確認しなくても仕事が進んでいました。なぜなら、言葉そのものよりも、同じ案件・同じ失敗・同じ観察・同じ作り直しの経験が共有されていたからです。
つまり、言葉が通じていたというよりも、見ている現実が共有されていたのだと思います。
同じ言葉を使っていても、見ているものが違う
自分で合同会社をつくり、外部の会社の支援ワークをすることが増え、同じ言葉を使っていても、見ているものが違うことに気づきました。
「ジャーニー」と言っても、人によって思い浮かべるものが違います。「ブループリント」と言っても、厳密な意味や使い方にずれがあります。そこで定義のすり合わせが必要になります。
それは外の世界で仕事をする以上、避けられないことだと思います。ただ最近、そのすり合わせとは別のところで、少し気になっていることがあります。
権威ある言葉に寄せすぎると、こぼれ落ちるもの
私自身が雑に言葉を使ってきたという反省もしているのですが、どうも違和感があったのは、実務で意味があること以上に、「正しい定義」みたいなものが独り歩きしているようなシーンです。どこかの教科書にあるのかもしれませんが、権威のある文脈で定義された言葉が空虚に感じるところもあり、こんなことにエネルギーを使いたくないと感じたところもありました。
なにより、そうやって言葉をそろえていくうちに、自分が現場で見てきた現象の手触りが少しずつこぼれ落ちていく感覚があったことがむしろ問題だったように感じます。
言葉の使い方が周囲の認識からずれていれば、通じにくくなることはあります。でも最近思うのは、言葉が少し定義からずれることよりも、自分の言葉が現実から離れてしまうことのほうが怖い、ということです。
聞きかじった専門用語で上手にまとめるよりも、多少不格好でも、自分が実際に見てきた現象に近い言葉を使いたい。そのほうが、自分自身の考えを見失わずにいられる気がします。
同じ定義を覚えることより、同じ現象を見ようとすること
外部の人と仕事をするとき、言葉のすり合わせは必要です。それを省くつもりはありません。
ただ、すり合わせの目的は、同じ定義を暗記することではなく、同じ現象を一緒に見ようとすること、あるいはどんなアプローチで山を登ろうとするかを不格好でも伝えあうことなのだと思います。
定義を先に揃えるのではなく、考えを共有し続けた結果として、少しずつ言葉の意味が近づいていく。そういう順序のほうが、自分には合っているように感じています。
借り物の「正しい言葉」で整えるよりも、自分が見てきたものから言葉を紡ぐこと。その言葉は、最初は少し通じにくいかもしれません。
それでも、現実から離れないために、そして自分が信じる山の登り方を少しずつ確かめていくために、そこにエネルギーを使いたいと最近思うようになりました。


