先日、あるクライアントから、こんな言葉をもらいました。 コンサルタントは、事業が潰れるかもしれないというヒリヒリ感は分からないですよね。 意地悪な批判ではありませんでした。事業を長く背負ってきた人の、率直な実感でした。
組織の論理は、内側にも染み込む 前回の記事で、AIが組織の意思決定や実行に入り込もうとすると、便利かどうかではなく、権限・責任・判断の構造とぶつかる、という話を書きました。 今回は、その続きとして、少し視点を内側に向けたいと思います。
企業のAI導入は慎重に進む一方で、現場の個人はすでにAIを日々の仕事で使い始めています。この「慎重な組織」と「速く試す個人」のズレを、組織学習の機会に変えるにはどうすればいいか。AI活用コンテストの意義と、その先に設計すべき「観察と翻訳の仕組み」について考えます。
AIは経営者の片腕になるのか 最近、意思決定とAIの関係について、いくつかの会社の経営者に話を聞く機会がありました。 こちらが持っていた仮説は、比較的素直なものでした。経営には複雑で曖昧な判断がつきまとう。
安宅和人さんのポストと、スウェーデンの研究者たちによる論文「Same storm, different boats」をほぼ同じタイミングで読みました。 論文は460万件の求人データを分析し、こんな事実を示しています。
AIの進化を眺めていると、自分たちの仕事について考えることが増えてきました。 以前できなかったことができるようになる。以前は時間のかかった作業が、短い時間でそれらしい形になる。
ひらめきには賞味期限がある。37signalsのその言葉が、ずっと残っています。アイデアの熱が冷める前に、まず心臓部分だけを形にする。今の道具が変えているのは、速さではなくそこです。
SANAAの《Grace Farms》とペーター・ツムトアの《テルメ・ヴァルス》を見ていると、建築が場所に「置かれている」のではなく「生えている」ように感じられます。その感覚から、設計の想像力について考えます。
良い習慣をつけてもらおうとすると、私たちはすぐに管理の方向に走るように思います。
やるべきことを整理する。忘れないように通知する。進捗を記録する。完了したかどうかをチェックする。
それは、「正しい」。実際、多くの場面で役に立ちます。特にデジタルサービスでは、こうした管理の仕組みはつくりやすく、分かりやすく、説明もしやすい。
けれど最近、その正しい管理に息苦しさを感じつつあります。
正直なところ、私は、ToDoを管理されたいわけではない。毎日きっちりやるべきことを提示され、できたかどうかを確認され、抜け漏れを指摘されたいわけでもない。ごちゃごちゃうるさいものからは距離をとりたくなる。
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そんな素朴な感覚を肯定するような、少し違う角度から助ける道具があったらよいかもしれない。行動を縛らない、強い習慣化を求めないもの。管理されているという感覚をもたせないもの。
そんな、気にかけるくらいの傾斜をもったツールです。
もちろん、ToDo管理が悪いわけではありません。
仕事の抜け漏れを防ぐ。期限を守る。複数人で進捗を共有する。やるべきことを分解し、前に進める。
そうした場面では、ToDoはとても有効です。
ただ、人の暮らしのすべてが、ToDoに向いているわけではありません。
植物を育てること。散歩すること。本を読むこと。誰かを気にかけること。自分の体調と付き合うこと。
こうした営みは、やるべきこととして管理された瞬間に、少し別のものになってしまうことがあります。
たとえば、植物の世話を考えてみます。
水をやる日。肥料をやる日。植え替えのタイミング。
それらをToDoにして、通知し、チェックできるようにすることはできます。
「今日は水やりの日です」「肥料をあげましょう」「このタスクは完了しましたか」
たしかに便利そうです。けれど、その瞬間に、植物との関係は少し仕事に近づいてしまう。できなかった日は、負債になる。通知を無視すると、少し後ろめたくなる。開くたびに、やれていないことを思い出す。
本来は、植物の変化を見ること自体が楽しかったはずです。少し葉が増えている。昨日より背が伸びている。新しい芽が出ている。逆に、少し元気がないようにも見える。
ルールベースにすると、どうもそうした変化を見るより、TODOをこなすことに向かってしまう。そこに違和感がありました。
その考えを小さく試しているのが、最近形にしてみた『Plant Care』というサービスです。
Plant Care サンプル画面:https://plant-line-bot-forme.vercel.app/share/e66f00d8-ae82-42c9-99ad-d133456d8cb6
Plant Careは、植物の世話を毎日のタスクとして管理するアプリではありません。水やりを完了したかどうかを厳密に記録するものでもありません。
植物の種類を入れる。写真を残す。気になったときにヒントを見る。必要なら、LINEから写真を送ったり相談したりする。
やっていることは、それくらいです。
写真を撮ることも、入力作業というより観察に近いものです。変化を見ること自体が楽しいので、写真を撮ることはそれほど苦ではありません。むしろ、植物との関係をほんの少し見つめ直す時間になります。
返ってくるものも、管理表ではなく、ジャーナルのようなものにしたいと思いました。
「今日のベランダは、こんな感じでした」「この植物は少し元気そうです」「こちらは少し気にしてもよいかもしれません」「土の乾き具合も、ついでに見てみるとよさそうです」
そのくらいの声かけでいい。
管理されるというよりは、誰かが一緒に庭を眺めてくれるようにしたかった。
サンプル画面には、ベランダで育てている植物が並んでいます。それぞれのカードには、置き場所や植えた時期、過去写真、ちょっとしたケアメモが添えられています。
ただし、画面は「今日のタスク一覧」ではありません。
Today’s pickでは、その日少し目を向ける植物が一つ選ばれる。Care summaryでは、葉色、虫食い、土の乾き具合など、軽く見ておくと安心な観察ポイントがまとめられる。
「やりなさい」ではなく、「少し見ておくと安心です」。
それくらいのものを作ってみたかったのです。
ここで考えているのは、大きく行動を変える仕組みではありません。「毎日必ず開く」「連続記録を伸ばす」「通知で戻ってきてもらう」といった、強い行動変容ではありません。
もっと小さなもので、「気にかけるくらい」の傾斜をつくることです。強い義務ではないけれど、無関心でもない。毎日完璧に向き合うわけではない。でも、なんとなく気になって様子を見る。少し変化があると嬉しい。危うそうなら、少し手を入れる。
これくらいの曖昧さを壊さない、という挑戦をしたかった。
考えてみたかったのは、管理する設計ではなく、手放す設計です。
サービスが、利用者の行動をすべて引き受けようとしない。次に何をすべきかを、細かく指示しすぎない。正解に向かって、一直線に誘導しすぎない。
ただし、それは何もしないということではありません。
完全に放っておくのではなく、少し見やすくする。あるいは、見方を示す。気づきやすくする。迷ったときには、そっと助言する。危うそうなときには、少しだけ声をかける。
でも、最後の関わり方は利用者に残しておく。ゆだねてしまう。
以前も書いたことがありましたが、この「ゆだねる」という感覚が大事なのではと思います。(過去投稿)
指示をしてもらうのは便利で楽かもしれませんが、息苦しい。
使う人が、自分のペースで関われること。サービスが、すべてを管理しきらないこと。それでも、関係が途切れにくくなるように、ほんの少しだけ場を整えること。
そういう道具になったら、と思いながら形にしてみました。
望ましい行動を「理想ジャーニー」として定義し、それに近づける強い行動変容支えるチャレンジも肯定されるべきです。それはそれでよいのです。
ただ、行動を支える仕組みが、いつも先生や監督者である必要はありません。行動を最適化し、ユーザーを導く存在でなくてもいい。
ときには、一緒に眺める存在でいいのではないかと思います。
このポストで紹介したPlant Careは、まだ試作に近いものですが、もう実際に使えるところまでは作り込んでいます。無料で使えるので、ベランダや室内で植物を育てている方がいれば、気軽に触ってみてもらえるとうれしいです。
Plant Care:https://plant-line-bot-forme.vercel.app/
UXの仕事では、「ペインを捉える」という言葉をよく使います。
ユーザーは何に困っているのか。なぜ、その行動がうまくいかないのか。どこに支援の余地があるのか。
この問いはとても大切です。ただ同時に、ここには落とし穴もあると感じています。
それは、ペインを見つけるつもりで、いつの間にか“もっともらしい物語”をでっち上げてしまうことです。
たとえば、ベランダで植物を育てている人がいるとします。
植物について詳しくない。水をいつあげればいいかわからない。日当たりが足りているのか判断できない。葉の色が変わったとき、それが危険信号なのかどうかもわからない。
このとき、私がまず捉えたいのは、
植物の世話をしたいのに、知識が足りず、うまく行動できない
という素朴な機能不全です。
ところが、この話を整理していると、時々こんな解釈が出てきます。
本当のペインは、花を枯らしてしまう罪悪感にある
もちろん、完全に間違いではないのかもしれません。植物を枯らしてしまえば、罪悪感を抱く人もいるでしょう。愛着や不安や、自分はちゃんと育てられないのではないかという感情もあるかもしれません。
ただ、こうした内面に入り込むようなペインの拾い上げは、どうも生活になじむツールづくりにフィットしないように感じます。「だから、どう役立つものがつくれるの?」という投げかけに対して筋道がたった仮説を立てにくい。
この内面に注目するというスタンスは、観察されていない物語を、設計者の側が勝手に作ってしまうということにもつながります。
しかもその物語は、たいてい少しだけ真実を含んでいる。だから厄介です。
少し当たっているから、深い洞察のように見える。インサイトらしく聞こえる。人間理解があるように感じられる。
でも、その物語が先に立つと、本来見るべきだったものがぼやけます。
何ができないのか。どこで迷っているのか。どの判断が止まっているのか。何があれば、次の行動に移れるのか。
つまり、行動のからくりです。
私は、UXデザインは、美しいコピーライティングではなく、機能性のある仕掛けだと思っています。
もちろん、言葉や感情を扱わないという意味ではありません。ただ、設計者が最初に見るべきなのは、ユーザーの内面を文学的に読み解くことではなく、行動がどこで止まり、どうすれば自然に動き出すのかという機構です。
水やりのタイミングがわからない。判断基準がない。変化に気づけない。気づいても、何をすればいいかわからない。
そうした小さな力学を見ていく。
そこに必要なのは、感動的なストーリーではなく、からくりを正しく捉える目線です。
そして、からくりをきちんと作っていくことが、意味のある仕組み、アーキテクチャになるのだと思います。
よいUXは、ユーザーの感情を勝手に代弁することから生まれるのではありません。
むしろ、うまく行動できないという機能不全を、素朴に、正確に捉えることから始まります。
生活者の内面を詩的に描写するようなワークは、後から慎重に扱えばいい。でも最初にそこへ飛んでしまうと、設計は現実から離れていきます。
AI時代には、この危うさがさらに強まる気がしています。
AIは、もっともらしい意味づけが得意です。小さな行動の詰まりを、きれいな物語に変換することができます。
だからこそ、設計者の側には、逆の力が必要になります。
深読みしたくなる気持ちを抑える。内面を想像した解釈に飛びつかない。まず、行動の詰まりをそのまま見る。
設計者が勝手にありもしない物語をでっちあげることは害悪にさえなりえます。
私たちがまず向き合うべきなのは、その人が現実の中でうまく行動できなくなっている場所です。
そこに小さな道を通す。判断できるようにする。迷わず動けるようにする。無理なく続けられるようにする。
そうして行動のからくりを整えていくこと。
それが、UXを「それっぽい物語」ではなく、本当に機能する仕組みに近づけていくのだと思います。