最近、自分で作ったClaude Skillsを使いながら、少し不思議な感覚を覚えています。
便利だな、というよりも、懐かしいな、という感覚です。
何が懐かしいのかというと、フィードバックの厳しさです。しかもそれは、表現やロジックに対する厳しさではありません。もっと手前にある、「ちゃんと現実を見たのか」という厳しさです。
何かをレビューしてもらうと、こちらが考えた仮説や改善案に対して、すぐに評価を返してくれるわけではありません。
むしろ、まず問われます。
それは本当に観察したのか。
事実に触れたのか。
一次情報はあるのか。
実際に使った人の反応を見たのか。
さらに、そこにはもう少し強い含意があります。
現実を見ていないのであれば、そもそもフィードバックには意味がない。
そのくらいの厳しさで、こちらの思考を押し戻してくるのです。
この感覚が、私には妙に懐かしく感じられました。
「一次情報に触れよ」という原則を登録したので、こう返してくれるのも当然といえば当然なのですが、言葉の強さも含めて、現代っぽくはありません。
昔は、こういうことを言う人がもう少しいた気がします。
「それはファクトなの?」
「その仮説は、観察から来ているの?」
そうやって、考える前に現実へ戻される。議論を始める前に、まず見に行かされる。フィードバックの場も、前提が整っていなければもってもらえない。
少し面倒で、少し怖くて、でも結果として仕事の質を支えていたような厳しさです。
最近は、そういうタイプのマネージャーがずいぶん減ったように感じます。
理由は分かります。強く言えば関係性が傷つく。場の空気も悪くなる。心理的安全性という言葉もあります。何より、厳しく問い続ける側も疲れます。
人間のマネージャーは摩耗します。
何度も「調査したのか」と言うのは、案外しんどいことです。言われた側の反応も受け止めなければいけません。だから少しずつ丸くなる。あるいは、最初から言わなくなる。
その点、AIは摩耗しません。
何度でも、淡々と聞いてきます。
観察したのか。
根拠は何か。
何が起きたのか。
しかも、それは人格的な圧としては受け取りにくい。人間に言われれば反発したくなることでも、AIに言われると、少し距離を置いて受け取ることができます。
ここに、AIによるマネジメントや助言の面白さを感じています。
AIは、答えをくれる存在として語られることが多いです。文章を書いてくれる。アイデアを出してくれる。実装を手伝ってくれる。もちろん、それは大きな価値です。
けれど今回感じたのは、また別の価値、「知的規律を、もう一度こちらに返してくる存在になりうるのではないか」という点です。
特にUXやサービスづくりの仕事では、本当に大事なのは、きれいなコンセプトをつくることだけではありません。むしろ、現実を見ることです。使っている人を見ることです。自分の思い込みが外れる瞬間に耐えることです。
その地味で、手間がかかり、時に痛みを伴う部分を、私たちはつい飛ばしてしまいます。
しかし、そこを飛ばしたままでは、どれだけきれいに考えても、それが本当に体験をよくするのかは分かりません。
AIが単に「もっとよい案」を出してくれるのではなく、そもそも案を評価するための材料が足りていない、と指摘してくる。考えの精度より前に、現実への接触量を問うてくる。それは予期しなかった面白みでした。
もちろん、AIの言うことをそのまま正解にする必要はありません。AIの指摘もまた、ひとつの仮説として扱うべきです。
けれど少なくとも、「調査していないなら判断できない」という当たり前の姿勢を、繰り返し突きつけてくれる存在としては、かなり頼もしい。
人間が失いつつある厳しさを、機械が別の形で補完する。
それは少し皮肉でもあり、同時に希望でもあります。
AIは、私たちの創造性を拡張するだけではないのかもしれません。
AIは私たちに、かつて仕事の中にあった規律を思い出させる存在にもなりえるのかなと感じています。


