「壊れにくい」だけでは足りない
タレブの『反脆弱性』という本を、最近少しずつ読んでいます。
癖の強い本です。文章も、主張も、ところどころかなり強い。けれど、読み進めていると、妙に残る考え方があります。
反脆弱性。
壊れにくい、という意味ではありません。
壊れにくいものは、ただダメージに耐えるものです。揺れても倒れない。叩かれても壊れない。もちろん、それも強さの一つです。
けれど反脆いものは、少し違います。
揺らされることで、むしろ強くなる。傷つくことで、次の変化に適応していく。小さな失敗や摩擦を取り込みながら、かえってよくなっていく。ヒュドラの首が1本切れたら2本生えてくるように。
そんなタレブの考え方に触れながら、とくに組織運営に関する部分が印象に残ったので少し考えを残しておきます。
組織運営では、ロスの少ない道がよく見える
ここで「組織はもっと大胆であるべきだ」といった、外側からの勇ましい話をしたいわけではありません。
実際に組織を動かす側にいると、大胆さだけでは済まない現実がいくらでもあります。
方針を変えると、関係者への説明が必要になります。
既存の計画との整合を取らなければならない。
予算や人員の再配置も起きる。
誰に、どの順番で、どう伝えるかも考えなければならない。
ひとつの判断を変えるだけでも、その背後には多くの調整が発生します。
だから、組織の中で慎重になることは、決しておかしなことではありません。むしろ、その場にいれば当然の感覚だと思います。
説明責任を果たすこと。
関係者の納得を得ること。
余計な混乱を起こさないこと。
既存の約束を乱さないこと。
限られた予算と時間の中で、できるだけロスを少なく進めること。
どれも、その状況においては十分に正しい。
組織の中で慎重に判断している人たちを、外側から悪く言ったり、下に見たりすることには意味がないと思っています。そこには、そこで働く人たちの現実があり、その状況なりの正しさがあります。
ただ、その正しさを内側から眺めていると、別の危うさも見えてきます。
正しい判断が積み重なると、大きく試せなくなる
運営上のコストがよく見えすぎると、大きく向きを変えることに躊躇が生まれます。
いま大きく方針を変えれば、相応の混乱が起きる。
うまくいかなかったとき、説明が必要になる。
戻すにも手間がかかる。
関係者を巻き込んだ以上、簡単には「やっぱり違いました」とは言いにくい。
そう考えると、人は自然に、いちばんロスの少ない道を選ぶようになります。
誰かが強く止めたわけではない。
誰かが「挑戦するな」と命じたわけでもない。
それでも、気づくと摩擦の少ない道が選ばれている。
自分たちで決めているようでいて、実際には、状況に決めてもらっている。
説明しやすいほうへ。
合意を取りやすいほうへ。
あとから責められにくいほうへ。
その選択は、一つひとつを見ると、たぶん間違っていません。
けれど、それが続くと、組織はだんだん「大きく試す」ことから遠ざかっていきます。
タレブの議論に引き寄せて考えるなら、ここに中央集権的な安定の危うさがあるのだと思います。
中央で方針を決め、全体を揃え、計画通りに進める。
それは平時には、とても合理的に見えます。
内部的な説明もしやすく、資源配分もしやすい。全体として何をしているのかも語りやすい。
組織が大きくなればなるほど、そうした安定は必要になります。誰もが好き勝手に動けばよい、という話ではありません。
ただ、波が大きくなると、その安定は別の顔を見せます。
中央が状況を読み切れなくなる。
現場の小さな違和感が、方針に反映されるまでに時間がかかる。
一度決めた計画を変えるコストが高くなり、変えたほうがよいと分かっていても、変えにくくなる。
つまり、平時には「安定」として機能していたものが、変化の大きい時代には「慣性」になります。
波が大きくなると、安定は慣性に変わる
これは、「波が来れば揺れる」というだけの話ではありません。
むしろ怖いのは、中央集権的な安定が、波を見えにくくすることです。
現場では、小さな変化が起きています。
顧客の反応が少し変わる。
使われ方がずれる。
以前なら通用した説明が、通用しなくなる。
自分たちが価値だと思っていたものの置きどころが、少しずつ変わっていく。
小さな違和感が、あちこちに出てくる。
けれど、中央で整えられた計画は、それらをすぐには扱えません。
なぜなら、小さな違和感は、説明しにくいからです。
まだ数字になっていない。
まだ失敗とは言えない。
まだ方針を変えるほどの材料ではない。
そうしているうちに、違和感は「ノイズ」として処理されます。
平時には、それでよかったのかもしれません。
ノイズをいちいち拾っていたら、組織は進まない。中央で決めた方針に沿って、多少の揺れを抑えながら進むほうが、効率がよい。
でも、環境の変化が大きくなると、ノイズの中にこそ次の兆しが混ざり始めます。
そのとき、中央集権的な安定は、組織を守る力であると同時に、兆しを捨てる力にもなってしまう。
タレブが繰り返し警戒している脆さも、こういうところに現れるのではないかと思っています。
波が高いときこそ、強くリードすべきなのか
よく言われる「べき論」は、
「波が大きいときこそ、強いリーダーシップが必要」
「迷いを断ち切り、中央が大きく方向を示し、組織全体を一気に動かすべき」
のようなものだと思います。
実際、その感覚はよく分かります。
不確実性が高いときほど、人は「決めてほしい」と感じます。方針が見えない状態は不安ですし、現場がそれぞれ別々に動けば、混乱も生まれます。だから、中央が状況を読み、強く進路を示すことには、確かに意味があります。
ただ、それでもなお、少し疑ってみたいのです。
波が大きいときに本当に必要なのは、中央がもっと正しく、大きく操舵することなのだろうか。
むしろ、そもそも大きく操舵しなければ変われない組織設計そのものが、波の大きい時代には脆いのではないか。
タレブの議論を借りれば、問題は「未来を読み切れないこと」そのものではありません。
未来を読み切れないにもかかわらず、中央が読み切れる前提で組織を動かしてしまうことです。
タレブのいう「反脆さ」を組織に引き寄せて考えるなら、むしろ、未来を読み切れないことを前提に、小さな単位で試せる組織が強い。
失敗しても全体が壊れない。
損失は小さく閉じる。
一方で、うまくいった試みは大きく育てられる。
そのためには、挑戦のすべてを中央承認の対象にしないことが重要になります。
現場の小さな違和感や仮説を、最初から全社方針や投資対効果の言葉に翻訳させると、試す前に生命力が失われてしまう。
階層が多く、小さな挑戦が上に上がる途中で丸められる組織は、平時には安定して見えます。
けれど波が大きくなると、現場の違和感を試す前に失っていく。
これは、脆い組織です。
必要なのは、より強い統制ではなく、小さく揺れられる地形
では、どうすればいいのか。
まだ自分の中で完全に整理できているわけではありません。ただ、タレブの本を読みながら考えているのは、より強いコントロールではなく、もう少しゆだねることの重要性です。
小さな単位で試す。
現場の違和感を拾う。
いくつかの仮説を並走させる。
うまくいったものが自然に残り、合わなかったものが静かに消えていく。
全体を一つの方向に強く動かすのではなく、複数の小さな揺らぎを許し、その中から次の形が立ち上がるのを待つ。
そういう組織のほうが、揺れに強いのかもしれません。
「失敗を許容する文化が大事だ」とはよく言われます。
それはその通りです。ただ、言葉として「失敗してもいい」と言うだけでは、おそらく足りません。
もし失敗したあとに戻すコストが高いままなら、人は試しません。
もし方針変更の説明が重すぎるなら、人は最初から無難な案を選びます。
もし評価が短期の成果だけに寄っているなら、人はアップサイドよりも減点回避を選びます。
波の大きい時代に危ういのは、間違える組織ではありません。
間違える前に、試す芽を潰してしまう組織です。
小さく試し、小さく失敗し、うまくいったものだけが大きくなる余白を残しておくこと。
そのほうが、波の大きい時代には強いのだと思います。
今は、反脆い組織とは何かを考える、とてもよいタイミングなのだと思います。
波が大きくなり、仕事の前提や価値の置きどころが揺らぎはじめると、組織の脆さは表に出てきます。
どこで試す芽が潰れているのか。
どの違和感が、まだ言葉になる前に捨てられているのか。
そうしたものが、以前よりも見えやすくなる。
だからこそ今は、反脆い組織をどうつくるかを模索するには、素晴らしいタイミングなのかもしれません。
揺らぎが大きい時代だからこそ、揺らぎを消すのではなく、揺らぎから学ぶ組織をつくる。
中央が未来を読み切るのではなく、あちこちで生まれる小さな兆しを、次の形へ育てていく。
それは、単なる組織改革ではなく、これからの時代における「強さ」の定義を問い直すことなのだと思います。
揺れないことではなく、揺れながら強くなること
中央集権的な安定は、平時には組織を強く見せます。けれど、波が大きくなると、その安定は、変化を受け止める力ではなく、変化を遅らせる慣性として現れることがある。
タレブの反脆弱性から受け取っているのは、おそらくこの感覚です。
強い組織とは、揺れない組織ではない。
小さく揺れながら、その揺れを学びに変えられる組織なのだと思います。
揺らぎを消すことで安定するのではなく、揺らぎを取り込みながら形を変えていく。
今、組織に必要なのは、揺れない強さではなく、揺れを取り込む強さなのかもしれないと感じています。


