環境が人の行動を方向づけてしまうという話をするとき、私はパノプティコンという監獄モデルをよく例に使います。


図版:Nicolas-Philippe Harou-Romain『Projet de pénitencier』(1840) Source gallica.bnf.fr / Bibliothèque nationale de France
ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で取り上げたことで、広く知られるようになったもので、中央に監視塔があり、その周囲を囚人の部屋が取り囲んでいる。囚人から監視塔の中は見えないため、いま自分が見られているのかどうかは分かりません。だからこそ、「見られているかもしれない」という可能性が、常にそこに残り続けます。
私は、この仕組みを「監視されていると思わせる仕組み」として理解していました。最近あらためてフーコーを読み返し、そこで起きていることは、もう少し深いものだったのだと今さらながら気づきました。遅れて得た理解ではありますが、ここに残しておこうと思います。
看守がいないことを、悟らせないための設計
まずベンサムの設計のディテール。読み返すと思ったよりも細かいものでした。
囚人からは、いま見られているかどうかが分からない。この状態をつくるために、ベンサムは中央の監視ホールの窓によろい戸を付けただけではありませんでした。ホールの内部にも、直角に交差する仕切りを立てている。区画から区画へ移動するときには、ドアではなく、ジグザグに折れた開口部を通る。ドアを開ければ、そのわずかな光や物音で、中に人がいることが分かってしまうからです。
これは、看守がいるかいないかを判別させないための工夫です。
フーコーは、そこからさらに進みます。
この装置では、誰が監視しているかは問題になりません。ほとんど誰でも、その装置を機能させることができる。所長がいなければ、その家族でも、訪問者でも、召使いでもかまわない。どんな動機で覗いているのかも問われない。権力の原理は、特定の人物ではなく、身体と面と光と視線の配置のほうにある。フーコーはこれを、権力の自動化であり、没個人化であると書いています。
そして、この装置がもっとも強く働くのは、それが何もしていないときです。介入しないまま、音もなく作用する。建築と幾何学のほかには、何の道具も使わずに。
ある現実的な服従強制が虚構的な〔権力〕関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段に訴える必要はない。(中略)鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、〔独房の〕区分が明瞭で、戸口や窓がきちんと配置されるだけで十分である。
では、そのとき実際に働いているのは何なのでしょうか。
囚人の側に生まれた、見られているという感覚だけです。フーコーの言い方に沿えば、この装置の主要な効果は、権力が自動的に作動する状態を、囚人自身のうちにつくり出すことにあります。
つまり、パノプティコンの完成形は「いつも監視されている状態」ではありません。監視しなくても、自分で自分を監視する状態です。外にあった仕組みが、人の内側へ移っていく。外側から強制されなくても、その人自身が自然とそう振る舞うようになる。
自ら権力による強制に責任を持ち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。(中略)自分がみずからの服従強制の本源になる。
読み直して、パノプティコンは、自らを律するところまで含んだ設計だったというのは大事なポイントだと思ったのです。
仕組みは、やがて「こうするものだ」に変わる
アーキテクチャの特徴は、必ずしも人の価値観を変えなくても、その行動を変えられることにあります。
たとえば、ある行動を選べないようにする。別の行動のほうを簡単にする。特定の行動だけが評価されるようにする。そこに納得や共感がなくても、人は置かれた環境に合わせて動きます。
けれど、パノプティコンが示しているのは、その先にも続きがあるということでした。同じ仕組みのなかで、同じ行動を繰り返していると、それは次第に、外から強いられた行動ではなくなっていく。
組織文化と呼ばれるものも、同じように生まれるのかもしれません。部活動や会社、寮生活などで、「最初は、評価されるからそうしていた。やがて、そうしない人に違和感を覚えるようになった」。そんな体験は私自身にもあります。外側に置かれていた仕組みが、いつしか自分の価値観になり得る。
設計する立場から、その責任の重さを感じる
そう考えると、UXやサービスを設計する仕事についても、少し見え方が変わってきます。
私たちは普段、「この環境なら、自然にこの行動が生まれるだろう」と考えます。たとえば評価指標を変えれば、その指標に沿って人の行動が変わる。人は置かれた環境に最適化した行動を選ぶ。よくある話です。
けれど、いま見てきたのは、その先に続きがあるということでした。行動の癖として残るだけではなく、何を普通だと思うか、何を恥ずかしいと思うか、どういう人でありたいと思うかにまで、少しずつ届いてしまうことがある。
だとすれば、アーキテクチャは、人が自分をどういう人間だと捉えるかにも、無関係ではないのだと思います。外に作った仕組みが、いつかその人の内側に入り、「こうするものだ」という感覚になる。そしてそれは、いつのまにか、その人自身の価値観として語られるようになる。
しかも、そこまで届いてしまった規範は簡単には取り外せない。
監視カメラなら取り外せても、自分のうちに生まれた「当たり前」は深く残ってしまう。
私たちは、そんなものをつくっているのかもしれない。
そう考えると、設計という仕事は、思っていたより少し重いのです。
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参考文献
ミシェル・フーコー『監獄の誕生〈新装版〉──監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、2020年)


