安宅和人氏のポスト『AI native時代の袋小路 ― 見立てる力はどこから来るのか』と、スウェーデンの研究者たちによる論文『Same storm, different boats』をほぼ同じタイミングで読みました。
スウェーデンのケースですが、論文は460万件の求人データを分析し、こんな事実を示しています。

- AIへの露出度が高い職種において、22〜25歳の雇用は2025年初頭の時点で5.5%減少
- 一方、50歳以上は1.3%増えている
採用の構成が変わっているのです。
たくさんの経験をして意思決定の判断基準が内在化している人材への期待が高まっている反面、蓄積の手前にある若い世代には門が狭くなっている。
状況が変わったのだから、求められる人が変わるのは当然のことです。
「べき論」として若手の経験機会を奪うべきでないという話がでても、合理性のある判断として、AI利用は止められないのだと思います。
合理的に考えれば消えるもの
若手の時代に担う入口業務は、確かに単なる「作業」ではなかったのだと思います。
調べる。まとめる。書く。直す。顧客の反応を見る。怒られる。またやり直す。そういう摩擦の中で、人は何かを育てていたのではないか。明確に言語化できる知識ではなく、「この状況でどう動くか」という判断の筋肉のようなもの。現実に触れ続けることでしか身につかない、ある種の感覚。
ただ、ここで気をつけたいことがあります。
昔の無駄に見える仕事は、実はすべて無駄ではなかった。
そういう話にはしたくありません。
無駄なものは、無駄です。
意味のない手戻り。誰も読まない資料。目的のない会議。必要以上の確認作業。ただ上の人が安心するためだけの段取り。
そうしたものを、「経験になるから」と言って美化するのは、私はあまり好きではありません。
合理化できるものは、合理化したほうがいい。
AIで減らせる無駄は、減らしたほうがいい。
その前提に立ったうえで、それでも残る問いがあります。
一見すると無駄に見えるけれど、実は価値を出すための最短距離になっているものまで、私たちは削ってしまっていないか。
そこが気になっています。
普通に合理化すれば、摩擦は消えます。
AIでできることを人にやらせるのは、合理的ではないからです。
ただ、その「非合理」に見える部分の中に、将来の判断力が育つ場があることもある。
このままいくと、判断できるだけの経験をどこで積むのかが、見えにくくなっていく。
「まともな会社」ほど非合理さを消し込む
安宅氏の提示する危機感と、近しいことを考えたことがあります。
私は、UXデザインの専門家集団を育てるという仕事を続けてきました。
UXデザインの質で突き抜けるチームを作ろうとすると、一般的な水準からみれば「過剰」と思えるような要求をせざるをえません。
「ユーザ馬鹿」とも呼ばれるような執着。ものわかりがよいコンサルタントであっては価値が出せない、という矜持。何度でも調査し、その場でプロトタイプを変えることを当然とする姿勢。
今の基準で見れば、健全とは言い切れない働き方もしてきたと思いますが、その過剰さがチームの強さでもあったと思います。「生活者側から世界を見ること以上に大切なものはない」という思想を明示し、完璧主義であること、偏執的であることを肯定する文化をつくっていきました。
ですが、その過剰さも、放っておくと消えそうになるのです。
会社が成熟していくと、徐々に「普通の、バランスの良い会社」になろうとする力が働きます。不安定さを減らし、再現性を高め、扱いやすい組織にしようとする。現場には定型的な仕事が増える。多くの会社にとっては、むしろ健全な方向です。
誰も悪くはありません。組織を良くしようという善意そのものです。
でも、そうした善意ある更新が、時間をかけて、気づかないうちに、もともと組織にあった歪さや過剰さを削り取っていきます。
まともに経営しようとすれば、非合理さは消えていくのです。
では「非合理な過剰さ」を残せばよいのか? 残せるのか?
繰り返しますが、私は、ただ非合理なものを残せばよいとは思っていません。
無駄なものは、やはり無駄です。
AIで速くなる仕事を、わざわざ昔のやり方に戻す必要もないと思います。
ただ、私の感覚でしかないのですが、「過剰さ」が「合理的」な場合は、その過剰さは残ると思っています。
UXデザインの質を高めようとしたとき。
ユーザーを見ることへの執着。
素早く現実に触れること。
何度も作って壊すこと。
違和感が消えるまで考え直すこと。
そうした過剰さは、外から見れば非効率に映ります。
しかし、内側からすれば最短ルートです。
試行錯誤のサイクルなしに、役立つものは作れない。
それは、今の環境でも変わらないと思います。
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無駄は、削ればいい。
AIで速くなるものは、速くすればいい。
それでも、ユーザーを見ること、現実に触れること、違和感が消えるまで作り直すこと。
価値に近づくために必要な過剰さまで、省いてはいけない。
むしろ、若い世代には、そこに挑戦してほしいと思います。
AIを使えばいい。
ただ、その先で、何に違和感を持ち、どこまで確かめ、どこまで作り直すのか。
そこからは逃げないほうがいい。
ちゃんと最短距離を走ること。
合理的に「過剰」であることから逃げないこと。
少なくともUXデザインの領域では、今もそれが正しいと私は思っています。
これから経験を積もうとしている若い人材が、どんな場を選ぶべきか。
ただ長く働く場、ただ苦労を美徳にする場など私は勧めません。
けれど、価値に近づくための過剰さを、省かずに引き受けている場と出会えたら、そこは選択肢に入れてよいと思います。


