建築家の青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本があります。
遊び方が決まっている遊園地と、どう遊んでもいい原っぱというメタファーを使って、空間がどう作られていくか、建築家がどう想像的な場づくりができるかを投げかけてくれる本です。
この問いに対して、私なりの、ひとつの見方を置いてみたいと思います。
それは、原っぱと遊園地の間にある、砂場のような空間が、設計可能なかたちの一つなのではないかというものです。
遊園地には「流れ」がある
遊園地では、体験の進み方がある程度かたちづくられています。
どこに並び、どう動き、どのように楽しむか。
ルールや導線に従うことで、体験が成立するようになっている。
もちろん、遊び方が完全に固定されているわけではありません。
それでも全体としては、体験の方向性が揃いやすい構造になっていると言えそうです。
原っぱは、そのままでは扱いにくい
一方で、原っぱには明確な遊び方がありません。
自由に振る舞うことができ、正解もなければ、順路もない。
ただ、自由度の高さが、そのまま行動の豊かさにつながるとは限りません。
何も起きないまま過ぎてしまうこともある。
原っぱは魅力的ですが、それをそのまま設計として扱うのは少し難しさもあります。
何もない空間に放置されることが正解ということでもない。
砂場では、なぜ遊びが続くのか
そこで、もう少し具体的な場所として砂場を見てみます。
砂場にも決まった遊び方はありません。
それでも、多くの場合、自然と遊びが始まり、続いていきます。
そこにはいくつかの条件があります。
手を動かすと、すぐに変化が返ってくること。
何をしても「間違い」になりにくいこと。
他者との関わりが生まれやすいこと。
同じ場所でも、毎回違う遊びが生まれること。
これらが揃うことで、行動が途切れず、次の行動へとつながっていきます。
こうして見ていくと、場所によって「起きやすいこと」に違いがあるように感じられます。
遊園地では体験の流れが揃いやすく、原っぱでは行動にバラつきがおきやすい。
そして砂場は、その中間にあり、行動がつながりやすい。
遊びは、混ざりながら続いていく
遊びのあり方について、ロジェ・カイヨワは、競争や偶然、ごっこ遊びなど、いくつかの型に分けて捉えています。
砂場では、これらが固定されません。
山を作れば競争のようになり、
水を流せば偶然に委ねる遊びになり、
場面によってはごっこ遊びも始まる。
それぞれが切り替わるだけでなく、重なり合いながら続いていきます。
「ここがお城」「これは川」といった前提が共有されると、遊びは一気に広がり、別の遊びを呼び込みます。
遊びは、一つに定まるのではなく、関係の中で変わり続けます。
砂場という独特さ
そう考えると、砂場は一つの設計のあり方として捉えられます。
行動を決めるのではなく、
行動を放置するのでもなく、
行動が連なりやすい状態をつくる。
遊びの型を与えるのではなく、遊びが混ざりながら続いていくことを支える。
完全に自由でもなく、過剰に制御されてもいないが、変化が続くための条件を整える。
こどもが他にも遊べるものがあるなかで、長時間砂場遊びを続けるのは一つの合理があるように思うのです。
この環境は「砂場」的かどうかという視点
この見方は、そのまま一つの道具として使えます。
いま自分が関わっている場は、砂場のようになっているだろうか。
何かをすると、次の行動につながるだろうか。
他者との関わりは自然に生まれるだろうか。
変化は続いていくだろうか。
あるいは、特定のやり方に収束してしまっていないだろうか。何も起きない状態になっていないだろうか。
この問いで見てみると、環境の見え方が少し変わってきます。
青木さんの投げかけに明確に返せていないかもしれませんが、環境を作る仕事で「砂場のような変化が連なる場を作る」という視点は一つの足掛かりになるのではないかと感じています。


