AIが整えるほど、「なんか違う」が大事になる
AIを使って文章を書いたり、企画をまとめたり、提案を整えたりする機会が増えました。以前なら初稿をつくるだけでも時間がかかっていたものが、今はかなり整った形でさっと出てきます。構成も論理も破綻が少なく、読みやすい。
AIを使って文章を書いたり、企画をまとめたり、提案を整えたりする機会が増えました。以前なら初稿をつくるだけでも時間がかかっていたものが、今はかなり整った形でさっと出てきます。構成も論理も破綻が少なく、読みやすい。
AIについて語るとき、私たちはつい「AIに何を任せるか」と考えます。調査を任せる。文章作成を任せる。議事録を任せる。レビューを任せる。コードを書くことを任せる。判断の補助を任せる。 もちろん、それは便利であり、実際に大きな変化です。
毎日触れているものが、少しずつ自分を変えている。そう言われると、多くの人は「何を見ているかが大事」という話だと受け取るかもしれません。でも、ここで考えたいのは、もう少し手前のことです。
もともと私は、AIに人間の代わりをさせたいとは思っていませんでした。 ただ、自作のレビューボットを作り、実際に使い続けるうちに、「AIに何をやらせるか」という発想そのものに、少し違和感を持つようになってきました。
ひらめきには賞味期限がある。37signalsのその言葉が、ずっと残っています。アイデアの熱が冷める前に、まず心臓部分だけを形にする。今の道具が変えているのは、速さではなくそこです。
SANAAの《Grace Farms》とペーター・ツムトアの《テルメ・ヴァルス》を見ていると、建築が場所に「置かれている」のではなく「生えている」ように感じられます。その感覚から、設計の想像力について考えます。
良い習慣をつけてもらおうとすると、私たちはすぐに管理の方向に走るように思います。
やるべきことを整理する。
忘れないように通知する。
進捗を記録する。
完了したかどうかをチェックする。
それは、「正しい」。実際、多くの場面で役に立ちます。
特にデジタルサービスでは、こうした管理の仕組みはつくりやすく、分かりやすく、説明もしやすい。
けれど最近、その正しい管理に息苦しさを感じつつあります。
正直なところ、私は、ToDoを管理されたいわけではない。
毎日きっちりやるべきことを提示され、できたかどうかを確認され、抜け漏れを指摘されたいわけでもない。
ごちゃごちゃうるさいものからは距離をとりたくなる。
—
そんな素朴な感覚を肯定するような、少し違う角度から助ける道具があったらよいかもしれない。
行動を縛らない、強い習慣化を求めないもの。
管理されているという感覚をもたせないもの。
そんな、気にかけるくらいの傾斜をもったツールです。
もちろん、ToDo管理が悪いわけではありません。
仕事の抜け漏れを防ぐ。
期限を守る。
複数人で進捗を共有する。
やるべきことを分解し、前に進める。
そうした場面では、ToDoはとても有効です。
ただ、人の暮らしのすべてが、ToDoに向いているわけではありません。
植物を育てること。
散歩すること。
本を読むこと。
誰かを気にかけること。
自分の体調と付き合うこと。
こうした営みは、やるべきこととして管理された瞬間に、少し別のものになってしまうことがあります。
たとえば、植物の世話を考えてみます。
水をやる日。
肥料をやる日。
植え替えのタイミング。
それらをToDoにして、通知し、チェックできるようにすることはできます。
「今日は水やりの日です」
「肥料をあげましょう」
「このタスクは完了しましたか」
たしかに便利そうです。
けれど、その瞬間に、植物との関係は少し仕事に近づいてしまう。
できなかった日は、負債になる。
通知を無視すると、少し後ろめたくなる。
開くたびに、やれていないことを思い出す。
本来は、植物の変化を見ること自体が楽しかったはずです。
少し葉が増えている。昨日より背が伸びている。新しい芽が出ている。
逆に、少し元気がないようにも見える。
ルールベースにすると、どうもそうした変化を見るより、TODOをこなすことに向かってしまう。
そこに違和感がありました。
その考えを小さく試しているのが、最近形にしてみた『Plant Care』というサービスです。
Plant Care サンプル画面:
https://plant-line-bot-forme.vercel.app/share/e66f00d8-ae82-42c9-99ad-d133456d8cb6
Plant Careは、植物の世話を毎日のタスクとして管理するアプリではありません。
水やりを完了したかどうかを厳密に記録するものでもありません。
植物の種類を入れる。
写真を残す。
気になったときにヒントを見る。
必要なら、LINEから写真を送ったり相談したりする。
やっていることは、それくらいです。
写真を撮ることも、入力作業というより観察に近いものです。
変化を見ること自体が楽しいので、写真を撮ることはそれほど苦ではありません。
むしろ、植物との関係をほんの少し見つめ直す時間になります。
返ってくるものも、管理表ではなく、ジャーナルのようなものにしたいと思いました。
「今日のベランダは、こんな感じでした」
「この植物は少し元気そうです」
「こちらは少し気にしてもよいかもしれません」
「土の乾き具合も、ついでに見てみるとよさそうです」
そのくらいの声かけでいい。
管理されるというよりは、誰かが一緒に庭を眺めてくれるようにしたかった。
サンプル画面には、ベランダで育てている植物が並んでいます。
それぞれのカードには、置き場所や植えた時期、過去写真、ちょっとしたケアメモが添えられています。
ただし、画面は「今日のタスク一覧」ではありません。
Today’s pickでは、その日少し目を向ける植物が一つ選ばれる。
Care summaryでは、葉色、虫食い、土の乾き具合など、軽く見ておくと安心な観察ポイントがまとめられる。
「やりなさい」ではなく、「少し見ておくと安心です」。
それくらいのものを作ってみたかったのです。
ここで考えているのは、大きく行動を変える仕組みではありません。
「毎日必ず開く」「連続記録を伸ばす」「通知で戻ってきてもらう」といった、強い行動変容ではありません。
もっと小さなもので、「気にかけるくらい」の傾斜をつくることです。
強い義務ではないけれど、無関心でもない。
毎日完璧に向き合うわけではない。
でも、なんとなく気になって様子を見る。
少し変化があると嬉しい。
危うそうなら、少し手を入れる。
これくらいの曖昧さを壊さない、という挑戦をしたかった。
考えてみたかったのは、管理する設計ではなく、手放す設計です。
サービスが、利用者の行動をすべて引き受けようとしない。
次に何をすべきかを、細かく指示しすぎない。
正解に向かって、一直線に誘導しすぎない。
ただし、それは何もしないということではありません。
完全に放っておくのではなく、少し見やすくする。あるいは、見方を示す。
気づきやすくする。
迷ったときには、そっと助言する。
危うそうなときには、少しだけ声をかける。
でも、最後の関わり方は利用者に残しておく。ゆだねてしまう。
以前も書いたことがありましたが、この「ゆだねる」という感覚が大事なのではと思います。(過去投稿)
指示をしてもらうのは便利で楽かもしれませんが、息苦しい。
使う人が、自分のペースで関われること。
サービスが、すべてを管理しきらないこと。
それでも、関係が途切れにくくなるように、ほんの少しだけ場を整えること。
そういう道具になったら、と思いながら形にしてみました。
望ましい行動を「理想ジャーニー」として定義し、それに近づける強い行動変容支えるチャレンジも肯定されるべきです。それはそれでよいのです。
ただ、行動を支える仕組みが、いつも先生や監督者である必要はありません。
行動を最適化し、ユーザーを導く存在でなくてもいい。
ときには、一緒に眺める存在でいいのではないかと思います。
このポストで紹介したPlant Careは、まだ試作に近いものですが、もう実際に使えるところまでは作り込んでいます。無料で使えるので、ベランダや室内で植物を育てている方がいれば、気軽に触ってみてもらえるとうれしいです。
Plant Care:
https://plant-line-bot-forme.vercel.app/
UXの仕事では、「ペインを捉える」という言葉をよく使います。
ユーザーは何に困っているのか。
なぜ、その行動がうまくいかないのか。
どこに支援の余地があるのか。
この問いはとても大切です。
ただ同時に、ここには落とし穴もあると感じています。
それは、ペインを見つけるつもりで、いつの間にか“もっともらしい物語”をでっち上げてしまうことです。
たとえば、ベランダで植物を育てている人がいるとします。
植物について詳しくない。水をいつあげればいいかわからない。日当たりが足りているのか判断できない。葉の色が変わったとき、それが危険信号なのかどうかもわからない。
このとき、私がまず捉えたいのは、
植物の世話をしたいのに、知識が足りず、うまく行動できない
という素朴な機能不全です。
ところが、この話を整理していると、時々こんな解釈が出てきます。
本当のペインは、花を枯らしてしまう罪悪感にある
もちろん、完全に間違いではないのかもしれません。
植物を枯らしてしまえば、罪悪感を抱く人もいるでしょう。
愛着や不安や、自分はちゃんと育てられないのではないかという感情もあるかもしれません。
ただ、こうした内面に入り込むようなペインの拾い上げは、どうも生活になじむツールづくりにフィットしないように感じます。
「だから、どう役立つものがつくれるの?」
という投げかけに対して筋道がたった仮説を立てにくい。
この内面に注目するというスタンスは、観察されていない物語を、設計者の側が勝手に作ってしまうということにもつながります。
しかもその物語は、たいてい少しだけ真実を含んでいる。
だから厄介です。
少し当たっているから、深い洞察のように見える。
インサイトらしく聞こえる。
人間理解があるように感じられる。
でも、その物語が先に立つと、本来見るべきだったものがぼやけます。
何ができないのか。どこで迷っているのか。どの判断が止まっているのか。何があれば、次の行動に移れるのか。
つまり、行動のからくりです。
私は、UXデザインは、美しいコピーライティングではなく、機能性のある仕掛けだと思っています。
もちろん、言葉や感情を扱わないという意味ではありません。
ただ、設計者が最初に見るべきなのは、ユーザーの内面を文学的に読み解くことではなく、行動がどこで止まり、どうすれば自然に動き出すのかという機構です。
水やりのタイミングがわからない。
判断基準がない。
変化に気づけない。
気づいても、何をすればいいかわからない。
そうした小さな力学を見ていく。
そこに必要なのは、感動的なストーリーではなく、からくりを正しく捉える目線です。
そして、からくりをきちんと作っていくことが、意味のある仕組み、アーキテクチャになるのだと思います。
よいUXは、ユーザーの感情を勝手に代弁することから生まれるのではありません。
むしろ、うまく行動できないという機能不全を、素朴に、正確に捉えることから始まります。
生活者の内面を詩的に描写するようなワークは、後から慎重に扱えばいい。
でも最初にそこへ飛んでしまうと、設計は現実から離れていきます。
AI時代には、この危うさがさらに強まる気がしています。
AIは、もっともらしい意味づけが得意です。
小さな行動の詰まりを、きれいな物語に変換することができます。
だからこそ、設計者の側には、逆の力が必要になります。
深読みしたくなる気持ちを抑える。内面を想像した解釈に飛びつかない。
まず、行動の詰まりをそのまま見る。
設計者が勝手にありもしない物語をでっちあげることは害悪にさえなりえます。
私たちがまず向き合うべきなのは、その人が現実の中でうまく行動できなくなっている場所です。
そこに小さな道を通す。
判断できるようにする。
迷わず動けるようにする。
無理なく続けられるようにする。
そうして行動のからくりを整えていくこと。
それが、UXを「それっぽい物語」ではなく、本当に機能する仕組みに近づけていくのだと思います。
AIやClaude Codeのようなツールを使っていると、「これ、何時間で作りました」「週末だけでここまでできました」といった話をよく見かけます。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
以前なら数日かかっていたものが、数時間、場合によっては数十分で形になる。画面ができる。動くものが出てくる。その変化は、たしかに大きい。ファーストアウトプットが速く出ることには、はっきり価値があります。
ただ、その「何時間でできた」こと自体を誇る空気には、どこか違和感があります。
なぜなら、UX改善という観点で本当に重要なのは、最初のアウトプットがどれだけ速く出たかではないからです。
大事なのは、その後です。
最初に出てきたものを触り、違和感を覚え、その理由を考え、言葉にし、もう一度画面に戻す。そのサイクルを、何回転できるか。
より本質的なのは、作って、触って、違和感を覚え、その理由を考え、もう一度画面に戻すまでの回転数が、桁ごと変わることです。
UX改善とは、何かをつくって終わりではありません。
むしろ、つくったあとに始まる仕事です。
実際に触ってみる。日常の中で使ってみる。そこで、「なんか違う」「ここで止まる」「気持ちよくない」「意味はわかるけど、使いたくならない」といった違和感が生まれる。
その違和感は、最初はたいてい言葉になりません。
ボタンの位置が悪いのかもしれない。文言が硬いのかもしれない。導線が遠いのかもしれない。あるいは、もっと根本的に、その機能が置かれている文脈や、使い手との関係性がずれているのかもしれない。
UX改善の仕事は、この違和感をただの感想として流さず、原因を探ることにあります。
表面で見つかるなら、表面を直せばいい。けれど、どうもそれだけではないと感じるなら、もっと深く潜る必要がある。使われる状況、生活の流れ、利用者の気持ち、提供者側の都合、行動の前提。そうした見えにくいところまで降りていって、そこからもう一度仕組みを更新する。
この営みこそが、UX改善なのだと思います。
AI時代のUX改善で大きく変わったのは、この違和感を中心にしたサイクルの速度です。
特に価値があるのは、次の3つの時間が短くなることです。
1つ目は、アウトプットが出てから、違和感を捉えるまでの時間の短さです。
頭の中で考えているだけでは、違和感はなかなか立ち上がりません。仕様書やワイヤーフレームを見ている段階では、よさそうに見えることも多い。けれど、実際に画面になり、触れる状態になると、急に身体が反応します。
「あれ、ここで迷うな」 「この順番だと気持ちが乗らないな」 「機能はあるけれど、使う理由が弱いな」
企画書のレベルではなく、手に取って触れるもの、暮らしの中で使ってみることのできる「動くもの」が早く出てくるほど、この違和感に早く出会えます。
2つ目は、違和感を言葉にするために、こねくり回す時間の短さです。
違和感は、感じた瞬間にはまだ曖昧です。それを「なぜそう感じたのか」「何が引っかかっているのか」「これはUIの問題なのか、構造の問題なのか」と考える必要があります。
このとき、AIは単に答えを出す道具というより、違和感を言語化するための壁打ち相手になります。
「この画面、なんか重い」 「なぜ重く感じるのか」 「情報量か、順番か、期待とのズレか」 「そもそも、この場面でユーザーは何をしたいのか」
こうして何度も言葉をぶつけ、組み替え、掘り下げることで、曖昧だった違和感が少しずつ輪郭を持ち始めます。
3つ目は、違和感を言葉にしたあと、それがもう一度画面に出てくるまでの時間の短さです。
これが特に大きい。
以前なら、「違和感の原因がわかった」としても、それを修正して画面に反映するまでには時間がかかりました。デザイナーに伝え、エンジニアに依頼し、優先度を調整し、実装を待つ。その間に、違和感の熱は少しずつ冷めていきます。
しかし今は、言葉にした違和感を、そのまま次の画面に反映しやすくなっている。
「ここは説明ではなく、先に結果を見せたい」 「この導線は、ユーザーが迷わないように一段減らしたい」 「この機能は前面に出すより、使いたくなった瞬間に出したい」
そうした仮説を、すぐに形に戻せる。
そしてまた触る。また違和感を得る。また言葉にする。また画面に戻す。
この回転が速くなることに、本当の価値があります。
ファーストアウトプットが速いことは、もちろん意味があります。
早く形になるから、早く触れる。早く触れるから、早く違和感が出る。だから、最初の出力速度は、回転を始めるための条件としては大切です。
でも、それはあくまでスタート地点です。
「何時間でここまで作りました」という話は、しばしばそのスタート地点だけを成果のように見せてしまいます。けれど、UX改善の品質は、最初に出てきたものの速さでは決まりません。
だからこそ、AIを使う側には、回転数を上げるという意識が必要になります。速く作れることに満足してしまうと、アウトプットの量は増えても、体験の質は十分には磨かれません。触って、違和感を捉え、言葉にし、もう一度形に戻すところまでを一つの単位として扱う必要があります。
むしろ、そこから何回触ったか。何回違和感を見つけたか。何回言葉にし直したか。何回画面に戻したか。
その回転数によって、体験は磨かれていきます。
だから、AIによって変わったのは、制作速度だけではありません。
むしろ重要なのは、一度外に出したものが、違和感を経由して、もう一度改善案として戻ってくる速度です。
作る。触る。違和感を覚える。言葉にする。直す。もう一度触る。
この一周が短いほど、UXの品質は上がっていきます。
なぜなら、UXの質は、最初のアイデアの美しさだけで決まるものではないからです。実際に触れたときに生まれる小さなズレを、どれだけ早く、どれだけ深く、どれだけ何度も扱えるかによって磨かれていく。
違和感は、失敗のサインではありません。
むしろ、改善の入口です。
そして、その入口に何度も戻れること。戻るためのコストが低いこと。戻ったあと、すぐにまた形にできること。
ここに、AI時代のUX改善の大きな可能性があります。
これまでのUX改善でも、調査をし、仮説を立て、プロトタイプをつくり、検証するという流れはありました。
けれど、その多くは、動くものになるまでに時間がかかりました。日々の暮らしの中で自然に試せる状態にたどり着くまでに、距離がありました。
いま起きている変化は、そこが決定的に違います。
動くものをすぐにつくれる。日々の中で触れる。触った瞬間に違和感が立ち上がる。その違和感をすぐに言葉にし、すぐに次の形に戻せる。
これは、単なる効率化ではありません。
UX改善の回転数が、桁ごと変わるということです。
そして、その回転数の変化こそが、いま起きているもっとも重要なイノベーションなのだと思います。
UX改善の核は、完成品を一度でつくることではなく、触って、感じて、考えて、直すという繰り返しのプロセスにあります。
実際に使いながら、表面の問題だけでなく、奥にある構造のズレにも気づいていく。利用者の行動、生活の流れ、気持ちの動き、仕組みの前提。そうしたものを少しずつ捉え直しながら、体験を更新していく。
AI時代に本当に価値を持つのは、最初から正解を出せる人ではなく、違和感に何度でも戻れる人なのだと私は思います。
そして、その違和感を曖昧なままにせず、言葉にし、また形に戻し、何回転もさせられる人。
UX改善において、これほど大きな武器はないはずです。
何時間で作ったかよりも、その後に何回転できたか。
そこに、これからのUX改善の本当の価値があるのだと思います。
前回、Claude Skillsを使って感じた衝撃について書きました。(過去投稿)
自分の専門性の一部が、ファイルになって外に出ていく。
しかもそれは、プロダクトの価値を捉え、表層の奥にある「見えないデザイン」を読み取るところまで到達している。
この現実を、まずは受け止める必要がある。
――前回は、そこまでを書きました。
では、その現実を前に、人間には何が残るのでしょうか。
現時点の私の答えは、かなりシンプルです。
現実に触れ、そこから意味のある発見をし続けること。
レビューが外部化されていくなら、これから価値が移るのは、レビューの前にある仕事です。
まだ情報になっていないものを見つけること。
まだ誰も言葉にしていない違和感を拾うこと。
現場に出て、一次情報に触れ、そこから新しい問いを立ち上げること。
そこに、焦点が移っていくのではないかと思っています。
まず、レビューとは何かを考えてみます。
レビューは、基本的には「すでにあるもの」を読む仕事です。
すでに画面がある。
すでに資料がある。
すでに仮説がある。
すでにユーザーフローがある。
すでにプロトタイプがある。
それを読み、構造化し、論点を出し、不明瞭な点や煮詰めが足りない部分をあぶりだす。
フォーカスが効いていないようなら、優先順位をつける。
良いレビューが簡単だと言いたいわけではありません。
ただ、レビューには「対象がすでに存在している」という特徴があります。
AIは、すでにある情報を読む力を急速に高めています。
画面、資料、文章、仮説。
そこにレビューの観点が与えられ、Skillとして整理されていれば、AIは良さとリスクを整理し、次の一手まで出せるようになっている。
前回、私が揺さぶられたのはまさにそこでした。
「すでにあるものをレビューする仕事」は、これからかなり外部化されていく。
もちろん、人間のレビューが不要になるわけではありません。
しかし、「レビューができる」こと自体は、これまでほど強い差別化要因ではなくなっていく気がしています。
では、何が差になるのか。
私は、レビューの手前にあるものだと思います。
何をレビューすべきか。
そもそも何が問題なのか。
どの現実を見に行くべきか。
まだ誰も気づいていない問いはどこにあるのか。
AIはとても強くなっています。
ただし、その強さには前提があります。
AIには、何かが与えられている。
資料、画面、調査ログ、議事録、レビュー対象、誰かが言葉にした仮説。
AIは、その中で考えるのが得意です。
一方で、私たちの仕事の本当に難しい部分は、そもそも何を問題として定義するのか、あります。
まだ誰も言葉にしていない違和感。本人も困っていると自覚していない摩擦。当たり前すぎて誰も説明しない習慣。「便利です」と言っているのに使い続けない理由。
こうしたものは、最初から資料になっているわけではありません。
現場に行き、人と話し、使われ方を見て、沈黙を見て、手元を見て、表情を見る。
その中から、「これは問題かもしれない」と感じ取る。
そこから初めて、情報が生まれる。
AIは、情報になったものを扱うのは得意です。
しかし、まだ情報になっていないものを情報として立ち上げる仕事は、簡単には外部化できません。
ここに、しばらくは人間の仕事が残るのだと思います。
UXやサービスデザインの仕事では、一次情報が大事だとよく言われます。
ユーザーに会いましょう。現場を見ましょう。自分で使ってみましょう。
それはもちろん正しい。
ただ、AI時代における一次情報の意味は、少し変わって見えてきました。
一次情報は、単に「正確な材料」ではありません。
もちろん、思い込みを外してくれることはあります。数字だけでは見えない背景が分かることもあります。でも、それだけではありません。
一次情報に触れることは、自分の感覚を更新することです。
現場に行くと、想定していなかったことが起きます。
ユーザは「困っている」とは言わない。
でも、同じところで何度も手が止まる。
「便利ですね」と言う。
でも、その後、使い続けない。
「特に不満はありません」と言う。
でも、実際には別のやり方で回避している。
「慣れれば大丈夫です」と言う。
でも、慣れるまでに多くの人が離脱している。
こうしたものは、表面的な発話だけを見ていると拾えません。
一次情報に触れるとは、言葉になっていない現実に触れることです。
そして、自分の中に違和感を生むことです。
「あれ、思っていたより根が深いかもしれない」
「こんな出し方だと、生活に入らないかもしれない」
「この反応は、継続にはつながらないかもしれない」
そうした感覚は、机の上では育ちにくい。
一次情報は、AIに渡す材料である前に、自分の感覚を鍛える場なのだと思います。
発見は、頭の中だけでは生まれにくい。
もちろん、考えることは大事です。仮説を立てることも大事です。
でも、本当に意味のある発見は、現実に触れて、肌で感じるところから生まれることが多いように思います。
プロダクトを前にして当惑している。
言っていることと、やっていることが違う。
便利なはずなのに、使われない。
不便なはずなのに、なぜか残っている。
誰も問題視していないが、よく見ると想定していなかったところにブレーキがある。
こうしたズレに触れることで、問いが生まれます。
その問いは、最初からプロンプトには書けません。なぜなら、まだ自分でも気づいていないからです。
現場に触れて、違和感を覚え、考え直す。そこではじめて、「本当に問うべきこと」が見えてくる。
レビューは、すでにある問いに答える仕事に近い。
発見は、まだ問いになっていないものを問いにする仕事です。
この差は大きい。
そして、これから価値が上がるのは、後者なのだと思います。
ただし、「現場に行けばよい」という話でもありません。
現場に行くこと自体はできます。
インタビューをすることもできます。
観察メモを取ることもできます。
でも、現場には情報が多すぎます。
人はたくさん話します。
言葉を拾い上げようとしても、矛盾も混じりますし、本質的な摩擦も、単なる好みも、同じような顔をして現れます。
そこから、何を発見として持ち帰るのか。
これが難しい。
ユーザーが言ったことを、そのまま要件に変えるだけでは足りません。
不満リストを作るだけでも足りません。
発話をきれいに分類するだけでも足りません。
必要なのは、現場で見たものを、設計すべき課題として立ち上げる力ではないかと思います。
これは個人の好みなのか。それとも、多くの人に共通する地形なのか。
これは一時的な不便なのか。それとも、仕組みの前提がずれているサインなのか。
そこを見極める必要があります。
だから、これから強くなるのは、単に「調査ができる人」ではありません。
一次情報に触れ、そこから発見し、その発見をチームやAIが扱える問いに変えられる人だと私は思います。
AIを使うほど、AIに渡す前の仕事が重要になります。
何を見てきたのか。誰に会ってきたのか。どんな場面を観察したのか。どの発言を重要だと感じたのか。どの沈黙に引っかかったのか。どの行動のズレを、問いとして持ち帰ったのか。
ここが弱いと、AIはそれっぽく浅い答えを返します。
表面的な材料を渡せば、表面的な分析が返ってくる。
よくあるペルソナを渡せば、よくある打ち手が返ってくる。
既知の論点だけを渡せば、既知の範囲で整った答えが返ってくる。
AIは文章を整えるのが上手いので、むしろ危険に思います。
浅い材料でも、かなり説得力のある文章になってしまう。
一方で、現場で拾った違和感、本人もまだ言葉にできていない摩擦らしきもの、当たり前すぎて誰も説明していない習慣。
そういった材料をAIに渡せる人は、ものすごく強い。
レビューする能力はAIによってかなり強化されるだけでなく、外部化されていくことは確定的だと思います。
すでにあるものを評価する。すでにある資料を整理する。すでにある画面を改善する。すでにある仮説にフィードバックする。こうした仕事は大切ですが、かなりの部分を機械に任せられるようになっていく。
一方で、まだ誰も言葉にしていない摩擦を見つける仕事、たとえば、生活者自身も気づいていない不便を拾う。誰も問題だと思っていなかったことを、設計すべき問いとして立ち上げる――こうした部分は、まだ簡単には外部化できないように思います。
それは既にある情報を処理する仕事ではなく、何を情報として扱うかを決める仕事だからです。
AIはこれからさらに強くなるでしょう。
レビューも、整理も、文章化も、かなりの部分が外部化されていくはずです。
それでも、現実に触れ続けることの価値は下がらないと思います。むしろ上がる。
なぜなら、現実に触れ続ける人だけが、新しい違和感を拾えるからです。
過去に言語化された知は、やがて古くなります。Skill化された判断も、放っておけば古くなります。
でも、一次情報に触れ続ける人は、現実の変化に合わせて知を更新できます。
その人は、AIに置き換えられるというより、AIを更新する側に回る。
ここに、希望があると思っています。