AIを使って文章を書いたり、企画をまとめたり、提案を整えたりする機会が増えました。以前なら初稿をつくるだけでも時間がかかっていたものが、今はかなり整った形でさっと出てきます。構成も論理も破綻が少なく、読みやすい。これは大きな変化ですし、ありがたいことだと思っています。
ただ、その「整ったもの」をそのまま通してしまうと、どこかコクが出ない。悪くはないのに、面白くない。瞬時に読めるのに、瞬時に忘れてしまう。形は整っているのに、自分の手触りがない。
最近、この感覚について考えることが増えています。AIが整えてくれるほど、「なんか違う」と感じる力がむしろ大事になっているのではないかと。
AIはかなり整えてくれる
あらゆるものをまずはAIで下書きする、というのは既に日常ですし、手放せるものではもはやありません。
文章も、提案資料も、コードも、プロトタイプも。AIに渡せば、それなりに整った形で返ってきます。文法の乱れは少なく、論理の飛躍も抑えられていて、見た目にはよくできている。
以前であれば、まず白紙の画面に向かって最初の一文を絞り出すところから始めなければならなかったものが、最初の形がすぐに手元に来る。この「初稿が出るまでの苦しさ」が大幅に減ったことは、間違いなく仕事の進め方を変えています。
ここまでは、素直に肯定してよいことだと思います。
でも、そのままだとコクが出ない
問題は、その先にあります。
AIが出してくれたものを読むと、破綻は少ない。読みやすい。それっぽく整っている。でも、なぜか引っかからない。悪くはないのに、面白くない。瞬時に読めるのに、読んだそばから忘れていく、という感覚があります。
要は、コクがない。
スルスルとした口当たりではあるが、残らない。
そこに「なんか違う」が生まれます。
「整っていること」と「伝わること」は同じではない。「読みやすいこと」と「面白いこと」も同じではない。「破綻がないこと」と「価値があること」も、やはり同じではありません。
「なんか違う」は品質の敵ではなく、入口である
「なんか違う」という感覚は、一見すると未完成のサインに見えます。まだできていない、まだ足りない、まだ詰められていない。
でも同時に、この違和感は、価値が生まれる入口でもあるのだと思います。
どこが違うのか。なぜ違うのか。自分は本当は何を言いたかったのか。誰に、どう届けたかったのか。「なんか違う」をきっかけに、こうした問い直しが始まります。
むしろ、はじまってしまう、という言い方のほうが実際的かもしれません。
違和感を持つからこそ、自分の思考が動き出す。
「なんか違う」は、品質を下げるノイズではなく、練り込みの始まりだと思っています。
練り込むという仕事
AIで出す。人間が読む。触る。違和感を持つ。崩す。削る。足す。言い換える。もう一度AIに通す。整え直してもらう。また読む。また違和感が出る。また直す。
この往復の中で、少しずつ自分の手触りが入っていきます。
ごく一部でも、自分の言葉にしてみる。そこからスルスルと紡がれる言葉がある。
それを起点にすると全体を変えたくなる。
こうした過程で、ただの生成物ではなくなっていきます。自分の思考を通ったもの、現実の手触りが入ったものになる。コクは、こうした往復の中で生まれるものなのだと感じています。
自動化できることと、自動化してよいことは違う
もちろん、すべてにこの往復が必要なわけではありません。
定型業務、データ整形、議事録の要約、フォーマット変換、FAQ対応。こうした領域では、AIに任せてそのまま通すほうが合理的ですし、そうすべきです。人間が毎回手を入れることにあまり意味がない仕事は確かにあります。
ただ、そうではない仕事、何もないところから生み出すような仕事は事情が違います。
体験設計もそうですが、念のようなものをもって、何度も煮詰めたものは何か引き寄せるオーラをまといます。
こうした領域では、練り込む過程にこそ価値が宿るように私は思います。
AI時代の仕事の質は、生成後に決まる
自動化できることと、自動化してよいことは同じではありません。練り込む過程を簡単に手放してしまうと、仕事の質は普通に下がります。
AIが整えるほど、「なんか違う」が大事になる。
整ったものをそのまま通すのではなく、違和感を拾い、練り込み、自分の手触りを入れる。その往復を手放さないことが、AIがいる環境で仕事の質を保つうえで大切なことだと思っています。
コクは、生成されるものではなく、練り込まれて生まれるもの。
忘れないよう、自戒もこめて、ここに残しておきます。


