Pokémon GOが世に出て、今年で10年になるそうです。10年、と聞いて、昔見たひとつの光景を思い出しました。
場所はたしか池袋だったと思います。街の一角に妙にたくさんの人が集まっていて、何かイベントでもあるのかと近づいてみると、そうではない。年齢も服装もばらばらな人たちが、ほとんど言葉を交わすこともなく、それぞれスマートフォンの画面を見つめている。少しして、Pokémon GOのレイドなのだと気づきました。
そこに人のつながりがなかったとは思いません。名前も知らない誰かが参加してくれたおかげで、倒せなかったポケモンが倒せる。会話はなくても、その数分間だけは同じ目的を共有していて、用が済めばそれぞれ別の方向へ歩いていく。うたかたのような、ゆるやかなチーム。それはそれで、Pokémon GOが生み出した新しいつながり方だったのだと思います。
ただ、これは私の好みの話なのですが、一つの場所に人が留まり、それぞれが画面を見つめ続けるという風景を、私はあまり豊かだとは感じませんでした。そして、ぼんやりと思ったのです。これは、もともとつくりたかった風景だったのだろうか、と。
つくり手が見ていた風景
私は、Pokémon GOをつくったNianticの創業者、ジョン・ハンケについて、ひとつの話を長いこと覚えていました。
ある夏の夜、父親と子どもが一緒にポケモンを探して歩く。何年か経って、そこで捕まえたポケモンのことは忘れてしまっても、父親と歩いたあの夜のことは覚えている。そういう時間をつくりたかったのだ―という話です。細かいところは、たぶん私が勝手に足しています。
今回あらためて、リリース前のインタビューを読み返してみました。2016年6月にファミ通Appに掲載されたもので、そこでハンケは、住み慣れた場所での親子の散歩も、Pokémon GOを通せばその景色が違って見えてくる、それが会話のきっかけにもなる、と話しています。そして「新たな思い出を共有してくれることを我々は望んでいます」と続けます。(記事アーカイブのリンク)
同じインタビューには、画面を見る時間を減らすための工夫が繰り返し出てきます。端末を下に向けるとスリープする仕組み。スマートフォンを取り出さずに遊べるようにするための、Pokémon GO Plusという小さな装置。アイテム集めのようなルーチンワークに費やされる時間を、友人と過ごす時間に返したい、という話。Ingressをつくったときには、目の前に美しい世界があるのに、プレイヤーが画面に夢中でそれを見逃してしまうという問題に直面したのだそうです。
ゲームをするために日常を中断するのではなく、日常のなかにゲームが薄く混ざっている。つくりたかったのは、そういう時間だった。そこには、かなりはっきりした風景があったように見えます。
それでも、人は思ったとおりには動かない
もちろん、つくり手がそう願ったからといって、人がそのとおりに遊ぶわけではありません。
Pokémon GOにはPokémon GOのルールがあります。強いポケモンがほしい。珍しいポケモンを捕まえたい。効率よく経験値を得たい。そう思えば、人はそのルールを読み、そのなかでもっともうまくいく方法を見つけていきます。歩き回るよりある場所に留まったほうがいいのであれば、そこに集まる。誰かと話すより画面を見ていたほうがいいのであれば、画面を見る。
これは、ユーザが遊び方を間違えたという話ではありません。その仕組みのなかで、ごく自然に行動した結果です。つくり手が見ていた風景と、つくられたルールと、そのルールを受け取った人の行動。この三つは、きれいには一致しません。設計者の手を離れた瞬間から、人は自分なりのやり方でそれを使い始めます。
それでも、風景を持っているものは強い
では、風景など持っていても仕方がないのかというと、私はそうは思いません。むしろ逆で、そこにこそ、他では代えのきかない強さがあると感じています。
風景があると、無数の判断が同じ方向に揃います。何を入れるか、何を入れないか、どこで手を止めるか。設計の現場では、こうした小さな判断が毎日、数え切れないほど起きます。同じ風景から出ていれば、それらは全体としてどこかへ向かって揃っていく。使う人は、その方向を、理屈ではなく手触りとして受け取ります。しかも風景は、仕様書に書かれていないところ―あえて入れなかったものや、細かな振る舞いのなかに、少しずつにじみ出てくるものです。だから、外から見て複製することができません。
そして何より、風景は、うまくいかなかったときにこそ効きます。ルールは読まれ、抜け道を見つけられ、想定していなかった使われ方をされる。それは避けられない。けれど、根のところに風景があるサービスは、そのたびに戻ってくる場所を持っています。ここは違う、と言えるための基準を持っている。
使う人の側も、どこかでそれを感じ取っている気がします。不便なところがあっても、期待どおりでない日があっても、なぜかそれを使い続ける。好きでいる。完璧だから愛されるのではなく、何を大事にしようとしているかが伝わるから愛される。そこに、つくり手が人や生活に向けていたまなざしが見えるからです。
ずいぶん大げさな言い方かもしれませんが、私はそういうところに、ものづくりの深いところにある愛のようなものを感じます。
ひとつの風景を持っておく
10年前に読んだそのインタビューの、数字も、機能も、私は何ひとつ覚えていませんでした。覚えていたのは、親子が歩いている風景だけです。
夕方、家を出る。ポケモンを探しながら、いつもなら曲がらない角を曲がる。途中で、ポケモンとはまったく関係のない話をする。気づけば少し遠くまで来ている。
ものをつくるとき、私もそのくらい具体的な風景を、ひとつ持っていたいと思います。その仕組みがうまくいったとき、人はどこにいて、誰といて、どんな時間を過ごしているのか。画面のなかで何が起きているかではなく、その人の日常に、どんな出来事が生まれているのか。
つくりたかったのは、どんな風景だったのか。
Pokémon GOが生まれて10年。昔見た少し不思議な人だかりを思い出しながら、そんなことを考えています。


