UXの仕事では、「ペインを捉える」という言葉をよく使います。
ユーザーは何に困っているのか。
なぜ、その行動がうまくいかないのか。
どこに支援の余地があるのか。
この問いはとても大切です。
ただ同時に、ここには落とし穴もあると感じています。
それは、ペインを見つけるつもりで、いつの間にか“もっともらしい物語”をでっち上げてしまうことです。
たとえば、ベランダで植物を育てている人がいるとします。
植物について詳しくない。水をいつあげればいいかわからない。日当たりが足りているのか判断できない。葉の色が変わったとき、それが危険信号なのかどうかもわからない。
このとき、私がまず捉えたいのは、
植物の世話をしたいのに、知識が足りず、うまく行動できない
という素朴な機能不全です。
ところが、この話を整理していると、時々こんな解釈が出てきます。
本当のペインは、花を枯らしてしまう罪悪感にある
もちろん、完全に間違いではないのかもしれません。
植物を枯らしてしまえば、罪悪感を抱く人もいるでしょう。
愛着や不安や、自分はちゃんと育てられないのではないかという感情もあるかもしれません。
ただ、こうした内面に入り込むようなペインの拾い上げは、どうも生活になじむツールづくりにフィットしないように感じます。
「だから、どう役立つものがつくれるの?」
という投げかけに対して筋道がたった仮説を立てにくい。
この内面に注目するというスタンスは、観察されていない物語を、設計者の側が勝手に作ってしまうということにもつながります。
しかもその物語は、たいてい少しだけ真実を含んでいる。
だから厄介です。
少し当たっているから、深い洞察のように見える。
インサイトらしく聞こえる。
人間理解があるように感じられる。
でも、その物語が先に立つと、本来見るべきだったものがぼやけます。
何ができないのか。どこで迷っているのか。どの判断が止まっているのか。何があれば、次の行動に移れるのか。
つまり、行動のからくりです。
私は、UXデザインは、美しいコピーライティングではなく、機能性のある仕掛けだと思っています。
もちろん、言葉や感情を扱わないという意味ではありません。
ただ、設計者が最初に見るべきなのは、ユーザーの内面を文学的に読み解くことではなく、行動がどこで止まり、どうすれば自然に動き出すのかという機構です。
水やりのタイミングがわからない。
判断基準がない。
変化に気づけない。
気づいても、何をすればいいかわからない。
そうした小さな力学を見ていく。
そこに必要なのは、感動的なストーリーではなく、からくりを正しく捉える目線です。
そして、からくりをきちんと作っていくことが、意味のある仕組み、アーキテクチャになるのだと思います。
よいUXは、ユーザーの感情を勝手に代弁することから生まれるのではありません。
むしろ、うまく行動できないという機能不全を、素朴に、正確に捉えることから始まります。
生活者の内面を詩的に描写するようなワークは、後から慎重に扱えばいい。
でも最初にそこへ飛んでしまうと、設計は現実から離れていきます。
AI時代には、この危うさがさらに強まる気がしています。
AIは、もっともらしい意味づけが得意です。
小さな行動の詰まりを、きれいな物語に変換することができます。
だからこそ、設計者の側には、逆の力が必要になります。
深読みしたくなる気持ちを抑える。内面を想像した解釈に飛びつかない。
まず、行動の詰まりをそのまま見る。
設計者が勝手にありもしない物語をでっちあげることは害悪にさえなりえます。
私たちがまず向き合うべきなのは、その人が現実の中でうまく行動できなくなっている場所です。
そこに小さな道を通す。
判断できるようにする。
迷わず動けるようにする。
無理なく続けられるようにする。
そうして行動のからくりを整えていくこと。
それが、UXを「それっぽい物語」ではなく、本当に機能する仕組みに近づけていくのだと思います。


