ジャーニーデザインに違和感を覚えることがあります。
ユーザーの行動を整理し、体験の流れを描き、どのタイミングで何を提示するかを設計する。その一連のプロセスは、とても合理的で、有効なものです。
実際、多くの場面で役に立ちますし、私自身もこれまで繰り返し使ってきました。
ただ、それでもなお、どこか引っかかる感覚が残ることがあります。
ジャーニーは、多くの場合「こう動いてくれたらよい」という前提を含みます。
ユーザのためを思って設計されている。より良い体験を届けるために、意図を持って導かれている。
それ自体は間違いではありません。
しかしそこには、どうしても設計者の意志が入り込みます。
善意ではあるけれど、どこかで「こうあってほしい」という形を置きます。
何より、その目指す状態に意識的に「嵌めに行く」発想をしながらデザインワークをしている実態があると思います。
もちろん、意図を持つことを否定したいわけではありません。
環境は中立ではないことは自明ですし、何も設計しないことが良いとも思っていません。
ただ。
「UXデザイン」が扱えるのは、そういうものだけなのか?とも思うのです。
設計者側にパワーがあろうが、体験そのものは常にユーザーの側で起こるものです。
設計者がどのような思想を持とうと、完璧なコントロールはできません。
むしろ多くの場合、意図は簡単に裏切られます。
そして、その裏切りの中にこそ、思いがけない豊かさが生まれることがあります。
ジャーニーデザインは、行動を分解できることを前提としています。
どのようなステップを経て、どのように進むのか。
その流れをある程度描けるからこそ、設計が成立します。
しかし、すべての体験がそのように分解できるわけではありません。
どこから始まり、どのように関わり、どこへ向かうのか。
その流れ自体が固定されていない状況もあります。
遊園地はある程度固定されていても、原っぱでの遊びは固定されていないでしょう。
(過去記事)
行動フローとして捉えきれないもの。
そこでは、ジャーニーという枠組みでは扱いきれないものが残ります。
では、そのような領域において、UXは何もできないのでしょうか。
おそらく、そうではありません。
行動の流れを設計することが難しいとしても、人がどのように関わり得るのか、その関わりを支えることはできるはずです。
固定化した行動をイメージするのではなく、「関わり」が立ち上がる流れを捉える。
あまりUXデザインという切り口で語られてきていないかもしれませんが、そうした視点ももちうるのではと考えています。
(過去記事)
仕事でも遊びでも、自然に生まれた動きが、強いエネルギーを持って広がっていくことがあります。
たとえば、学校の校則でも似たことが起きます。
上から決められたルールは守られることはあっても、どこか自分ごとにはなりにくい。
一方で、自分たちで決めたルールは、関わりながら運用され、自然と続いていく。
(過去記事)
最初から設計されていたわけではない。それでも人が関わり続け、結果として大きな意味を持つ。
むしろ、こうした「関わりが続いてしまう状態」をつくることに、UXの差し出せるものがあるのではないか。
設計者の意図が裏切られることを前提にしながら、それでも関与が続いていく状態を整えることも、UXの射程に含むことはできないか。
まだうまく言い切れてはいません。
ただ、設計しすぎることで失われているものがあるのではないか。
そして、決めきらないことで立ち上がる何かがあるのではないか。
そんな感覚を、ここしばらくずっと考えています。


