最近、森有正さんの『生きることと考えること』を読み返していました。書かれたのは五十年以上前です。それなのに、まるで今日のことを書いているように感じる箇所がいくつもありました。
とりわけ心に残ったのは、こういう趣旨の話です。人間が実際に経験できる量よりも、知識として取り込める量のほうが、圧倒的に多くなってしまう。そうすると、自分の言葉になりきっていない他人の言葉を借りて、なんとなく分かったような気になってしまう。
きっと、こうした問題は昔からあったのでしょう。頭の中に知識が増えていく速さに、自分の実感が追いつかない。その感覚自体は、決して新しいものではないはずです。
けれど、生成AIの時代になって、その差は急に大きくなったように感じています。
AIが広げてくれるもの
AIのおかげで、私は自分では思いつかなかった視点を知ることができます。知らなかった知識を、短い時間で理解できます。昨日までできなかった仕事が、今日はできるようになっている。そんな瞬間が、たびたび訪れます。
これは、本当に素晴らしいことだと思っています。
自分ひとりの力では、何日もかかっていたはずのことが、驚くほど早く形になる。AIは、まちがいなく人間の能力を大きく広げてくれます。この事実を、私はまず素直に肯定したいのです。
ただ、何か落ち着かない。
どうも、借り物の力という感覚が正直あるのです。
増えるものと、増えないもの
知識は、一瞬で増えます。けれど、経験は、一瞬では増えないのです。
AIとやり取りをした直後、私の頭の中は、たしかにひとまわり大きくなっています。新しい概念を知り、整理された説明を受け取り、分かった気持ちになっている。
でも、その知識を実際に使ってみたのかというと、まだ何もしていません。頭の中だけが急に膨らんで、現実の手応えが、そこに追いついていない。そんなアンバランスさが、落ち着かなさの正体だと思います。
AIはとても大きな力を貸してくれます。
けれど、それはまだ「自分の実力」ではありません。
借りたものは、たしかにすぐ手に入ります。返す必要もありません。
それでも、借りた力のままでは、いざというときに、自分の判断として使いこなせないとも思うのです。
借りた力が、実力に変わるとき
では、借りた力は、どうすれば自分の実力に変わっていくのか。
頭でっかちになった状態から、体が追いついていく、ということだと思います。
借りた知識に、自分の経験が少しずつ重なっていく。
それは地味な過程です。
実際の現場で試してみる。うまくいかず、失敗する。説明されたときには分かったつもりだったのに、やってみると、どこか違和感が残る。その違和感を手がかりに、もう一度考え直す。
こうした地道な行き来を何度かくり返すほかない。
そして、この過程にかかる時間だけは、AIでも短くできないのではないのだとも思います。
知識を渡すことはできても、それを自分の中で確かめ直す時間そのものは、代わりに過ごしてもらうことができない。
仕事のかたちも、少し変わるのかもしれない
そして、このことは個人の話にとどまらない気がしています。
これまでは、知識を渡すことにも価値がありました。まだ広く知られていないことを整理し、分かりやすく届ける。それ自体が、たしかな貢献だったと思います。
けれど、知識そのものが、誰にとってもすぐ手に入るようになったとき。価値の置きどころは、少しずつ移っていくのかもしれません。
たとえば、経験が自然に積み重なっていく環境を整えること。あるいは、大きなリスクを負わずに、小さく試せる状況をどう設計するか。知識ばかりが無限に増える段階になると、体験をそれに追いつかせることに、より大きな意味が生まれてくるのかもしれないと感じています。
知識を届ける仕事から、経験が育つ場をつくる仕事へ。まだうまく言い切れないのですが、そんな移り変わりの予感を、最近よく感じています。
森有正さんが五十年以上前に書いたことは、いまも変わらず私たちの前にあります。
頭の中は、いくらでも早く大きくできる。
けれど、それを実感に変えていく歩みは、昔もいまも、そう簡単には速くならない。
AIのおかげで、知識は驚くほど速く増えるようになりました。
だからこそ、人間の課題は、その知識に経験を追いつかせることへ移ってきている。
だとすれば、AIが短縮してくれた時間を、さらに知識を集めることに使うのではなく、実際に試してみることに使う。借りた力を、自分の実力へ変えていく時間とする。
AIとの対話で空いた時間は、そんな体験にあてるものなのかもしれない。最近は、そんなことを思っています。


