ときおり目にする、「AIの時代も、自分のアタマで考える時間を持とう」という主張。
正しいと思います。
正しいのに、読むたびに、私はうっすら気持ち悪くなります。
どこが、とは言えないのに、「これじゃない」と感じてしまうのです。
最初はその違和感を、自分の甘さだと思って押し込めようとしました。
便利なものを前にした、ただの言い訳ではないか、と。
でもどうにも気になってダラダラと結論づけずに頭の片隅においていたのですが、ふと気づいたのは、まさにこの「これじゃない」と感じる力を失いたくない、焦点はむしろそこにある、ということでした。
論文が本当に警告していること
Michael Caosun・Sinan Aral の論文は、都合の悪い現実を証明しています。
AIを使うほど生産性は上がるのに、その生産性を支えていたはずの技能が、じわじわ削られていく。しかも怠けた人の話ではなく、締め切りの前で合理的に選んだ結果として、そうなるというのです。
ただ、繰り返し読んで分かったのは、この論文が本当に警告しているのは「AIを使うこと」ではない、ということでした。
技能が落ちるのは、AIを使ったからではなく、解釈し、問い直し、直すという関与を手放したときです。
ある実験では、タスクを丸ごと委ねた人がいちばん学ばず、関わり続けた人はまだましだった、と報告されています。論文の言葉で言えば、劣化は practice を手放したときに起きる。形だけ人が関わっていても、それが「判子押し」のようなものなら同じことだ、とも書かれています。
つまり劣化の分かれ目は、AIを使ったか否かではなく、粘るのをやめたか否か、にあります。
直感の錆
そして、いちばん背筋が伸びたのはここでした。
私が手放したくないと思ったその力には、すでに名前がついていたのです。intuition rust ——直感の錆。
この言葉は、Upol Ehsan らの論文(一年かけて、AIによる診断支援を使うがん専門医たちを追った調査)から来ています。
熟練医の「この患者には何かある」という勘が、使い続けるうちに静かに鈍っていく。しかも intuition rust は、ある専門医が実際に漏らした一言 ―― 「私の直感が錆びてきている」 ―― から採られています。「承認が速くなりすぎている」と、本人が先に気づいていたのです。
私は、違和感に粘れば人間の力はこれまでとは違う形で伸びていく、と考えています。
Ehsan らは、その違和感は放っておくと錆びる、と言う。しかも錆びの本当の怖さは、失った違和感には気づけないことにある、と。
私が言いたいことを逆側から言ってくれたという感覚がありました。
感じる力が落ちると、「これじゃない」がそもそも立ち上がらなくなります。錆びたことにすら気づかないまま、出てきたものを、まあいいか、と受け取るようになってしまう。
生産性を定義しなおす
私はよく、AI時代の生産性という話になると電卓や漢字変換のことを思います。
計算する力も、漢字を手で書く力も退化しました。それで困ってはいません。手放してよかったと思っています。
ただ、退化してよい技能と、そうでない技能があります。
手放していいのは、その力が“AIの出力を引き受けるためには要らない”ときだけです。計算はもう、上位の判断には要りません。だから捨ててよい。
けれど「これじゃない」と感じる力は、そちら側の技能ではありません。
それは、AIの出力を引き受けるために、いちばん要る力です。
これを錆びさせてしまうと、速く大量に出せているのに、その良し悪しが分からなくなります。
だから私は、生産性そのものを定義しなおすべきなのだろうと思っています。
生産性とは、どれだけ出したかではありません。
どれだけ「自分が引き受けられる出力」を出せたか、だと思うのです。
Caosunらの論文が鋭いのは、AIがあると「アウトプットの量」はもう技能の代理指標にならない、と指摘したところです。
アウトプット量が増えても、それが自分の力か道具の力か、区別がつかない時代にすでに入っている。それは否定する必要もなく、結構なこと、でよい、
ただ、引き受けられるかを測る物差しを手放した瞬間、増えていくのは自分の仕事ではない、なんだかよくわからない垂れ流される何かになってしまいます。
そして自分が、そのアウトプットを「自分のものだ」と引き受けられるかどうかは、たいてい頭で判定する前に、違和感として先に来ます。
何かが噛み合っていない、という身体の側の反応です。
違和感がセンサーで、「引き受けられるか」はその読み取り。
だから私が実際に手放せずにいるのも、そこです。
プロンプトも要約も整理も初稿もAIに任せます。むしろ積極的に任せます。それでも、依頼の枠組みをつくるところ、暫定解と方向を決めるところ、出てきたものを丸呑みせずもう一段深める問いを返すところは、さぼれません。
これは、根性ではありません。そこが、違和感が働いて、読み取られる場所だからです。
—
考えてみれば、世間で言われる「自分のアタマで考えよう」に私が覚えた気持ち悪さも、偶然ではなかったのだと思います。
今回いろいろ書いてみて整理できたことですが、私が気持ち悪かったのは、「AIに任せすぎるな」と言った直後に、「では自分の頭で考えよう」と反対側の正論へ飛んでしまう、その雑さだったのだと思います。それが簡単にできないから、みんな苦労している。
ただ、その気持ち悪さも最初は「違和感」以上のものではなかった。
今回、その違和感を放置しないで色々考えたのですが、これを放置しだすとセンサーは錆びていくのだと思います。
直感の錆への抵抗
必要なのは、AIを遠ざける決意ではなく、「これじゃない」と感じる力が働く場所を、生活と仕事の流れの中に残しておくこと。
量の加速は、肯定していい。AIに任せられることは、どんどん任せればいい。
ただ、出てきたものを前にして、少し立ち止まる。これは本当に引き受けられるのか、と感じてみる。
その小さな抵抗だけは、手放さずにいたい。
直感が錆びるのは、たぶん、そこを省いたときなのだと思います。


