ただ「快適さ」を保持することは善なのか?
ここで、より根本的な問いが立ち上がります。
成熟社会において、快適さは本当に善なのでしょうか。
工業化の時代、快適さの向上は進歩そのものでした。しかし一定の水準を超えた社会では、快適さの増加が必ずしも豊かさの増加と一致しなくなります。
不快が少ないこと。摩擦が少ないこと。判断を委ねられること。これらは快適です。
しかし同時に、自分で選ぶ機会、違和感に耐える機会、基準を更新する機会は減っていきます。能力は、使われなければ衰えます。
短期最適の快適さだけを追い続けることは、ゆっくりと能力を手放していくことかもしれません。
それは劇的な崩壊ではありません。
強い言葉を使えば、それは「ゆっくり死ぬ」ことに近い。
ここでいう死とは、身体の終わりではありません。更新の停止です。自在さの喪失です。
だからこそ、ほんの少しの異質さを織り込むことは、刺激を与えるためではありません。
能力を保ち、育てるためです。
これは設計のテクニックではなく、未来に対する責任だと私は考えます。
設計者が対峙する問いとは
フィルターバブルは消えません。最適化は止まりません。快適さは強化され続けます。
だからといって、設計者が無力になるわけではありません。
問いはこう置きなおせます。
「自動的にコンフォートな状態を念頭においた上で、日々を豊かにすることはできるのか」。
豊かさとは刺激の強さではありません。自在さとは情報量の多さではありません。
自分の選択肢が広がっている感覚。
自分の基準が更新されている感覚。
自分で選び取っているという感覚。
快適さを保ちながら、これらを育てる構造は設計できるのではないかと考えています。
快適さに方向を与える
アルゴリズムは最適化します。
しかし方向は自動的には決まりません。
依存を強めることもできれば、逆に自律を育てることもできる。
違いは、設計時にどの未来を仮定するかです。
機械は傾向を読み、人は方向を仮定する。この役割は、いまも残っています。
コンフォートゾーンを守るだけでなく、そのなかで何が育つかを設計する。
快適さに方向を与える。
必要に応じて不快さ、変化やブレを意図をもって仕込んでいく。
それが、機械協働時代に残された設計者の仕事なのだと思います。
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