VRを用いたイベントや体験コンテンツは、ここ数年で確実に増えてきました。
かつては、ヘッドセットをかぶること自体に体験価値がありました。
「VRである」という事実そのものに人を集める力があった。
けれどいまは、少し様子が違います。
物珍しさのフェーズは過ぎ、中身が問われ始めている。
プロジェクトでVRを扱う機会も徐々に増えていますが、最近感じていることがあります。
それは、「没入感を技術的に突き詰めるという努力の方向は、果たして正しいのか?」ということです。
解像度は、体験を保証しない
VRの議論はどうしても、
・解像度
・視野角
・フレームレート
・触覚再現
といった性能の話になりがちです。
もちろん、それらは重要です。
しかし、技術的なリアリティが高まることと、体験が深まることは、必ずしも一致しない。
古いゲーム機の体験を思い出すと分かりやすいかもしれません。
粗いポリゴンやドット絵でも、私たちは世界を感じ、物語に入り込んでいました。
足りない部分は、想像力が補っていた。
今も、同じような面があるのではと思います。
正直「放送的」であれば、VRでなくてもよい
様々なVR企画があるとおもいますが、一方通行の放送的なものを見るたびに「VRでなくてもよい」と個人的には思うことが多かったように思います。
空間はVRでも、体験は巨大な配信をみると、映像として観るのと、本質的な違いはあまりない。
壮大な空間演出があっても、当事者である感覚は薄いままです。
「VRに面白さを感じない」という人は、VRである必然を感じてないから、というケースはそれなりにあるのではと思います。
気まずさを感じた瞬間という価値
私は、最近ですが、VRの可能性を感じ始めているのです。
きっかけは、VR空間での何気ない会話の瞬間です。
相手が少し言葉に詰まり、沈黙が生まれ、その気まずさのようなものを感じ取った、その瞬間。
アバターは高精細ではありませんでした。
それでも、そこには確かに空気があった。
こちらの反応次第で、場の緊張が変わるかもしれないという感覚。
それは、フィジカルで向き合っているときに近い、微妙な空気や緊張でした。
そのとき初めて、「これはVRでなければ生まれなかったかもしれない」と感じました。
面白さは、瞬間に宿る
個人的な感覚かもしれませんが、VRの面白さは、壮大な仮想空間にあるのではないのかもしれません。
生のインタラクションが立ち上がる、その一瞬。
返答を待たれる時間。沈黙が意味を持つ時間。相手の反応で状況が揺れる時間。
放送的な体験は完成されています。そこにいる私たちは観客です。
しかし、生のインタラクションは未完成です。
どう転ぶか分からない。
少しの言葉で空気が変わる。
その不安定さが、想像力を強く働かせる。
そこには、確かに新しいタッチポイントとしての可能性があるように私は思います。
没入とは、技術的に高解像度の空間に包まれることではなく、関係の緊張に巻き込まれることなのかもしれません。
いまの参加者は、VRが現実と同じだとは思っていません。
多少画質が荒くても、動きがぎこちなくても、それを理解したうえで参加している。
それでも、感情は動く。
これは「だまされている」わけではありません。
意識的に想像しているわけでもない。
関係が立ち上がるとき、人は勝手に想像力で補完し、心を動かしてしまう。
むしろそこに面白さがあるように思います。
人間の想像力が、人と人の関係が生まれた瞬間に自然に起動してしまうものとすれば、そこにクリエイターはエネルギーを振るべきではないか。
VRであることを忘れる設計
極論、良いVR体験とは「VRらしい体験」ではないのかもしれません。
視界を覆うことでも、リアリティを極限まで高めることでもなく、向き合っている感覚が生まれること。生のインタラクションが成立すること。
その結果として、そこにリアリティがある。
VR空間にいることを強調しない。むしろ、気づけば忘れている。
忘れた瞬間に、体験は立ち上がる。
VRであることを忘れる設計。
まだまだこれからの領域だと思いますが、そこに、次のフェーズのヒントがあるように感じています。


