アテンション・エコノミーの議論を見ていると、ときどき強い言葉に出会います。
アルゴリズムが社会を壊した。
プラットフォームは分断を煽っている。
インターネットは失敗だった。
炎上が収益になる構造には、たしかに歪みを感じます。
けれど同時に、私はこうも思うのです。
その仕組みを設計した人たちは、本当に悪意を持っていたのだろうか、と。
おそらく違います。
多くは、与えられたKPIを真面目に追い、エンゲージメントを最大化し、収益を伸ばそうとした職務遂行者だったはずです。
重大な歪みは、必ずしも悪意から生まれるわけではない。
大学院時代、私は権力論やカルチュラル・スタディーズの文献を多く読みました。
そこには、社会に対して鋭く、挑戦的な姿勢がありました。
権力を暴き、構造を告発する。
その対抗の姿勢そのものが、思想の存在意義のようにも見えました。
けれど当時の私は、どこか違和感も抱いていました。
世界はそれほど単純な抑圧構造だけでできているのだろうか。
歪みはある。
しかし、すべてを敵として糾弾することが本当に正確なのだろうか。
その違和感の正体は「悪意のないまま、意図せず歪みが生まれる」構造があることを、どこかで感じていたからではないかと思います。
ハンナ・アーレントは、ナチスの戦犯アイヒマンを取材し、「悪の凡庸さ」という言葉を残しました。
彼は怪物ではなく、命令に忠実な、きわめて“普通の”官僚だった。
大きな歪みは、悪魔のような人物ではなく、真面目な人々の合理的な行為から生まれることがある。
真面目に、誠実に、利益を最大化しようとする努力であっても、必ずしも望ましい社会を生むとは限らない。
炎上商法を正当化してしまうアルゴリズムも、短期的な合理性の積み重ねの結果、モンスターを生んでしまったということではないかと思います。
問題は悪意ではなく、合理性の設計にある。
では、この構造は変えられないのでしょうか。
私はそうは思いません。
酒やドラッグとの付き合い方が社会のなかで調整されてきたように、強い刺激との距離を取る仕組みは、時間をかけて整えられていく。
設計は人を歪ませることもある。
しかし同時に、設計はその歪みを緩和することもできる。
善なる設計は、善人の存在によってではなく、構造の更新によって可能になる。
私はその進化を、信じています。


