大学院時代に読んだ議論のなかに、アマルティア・センの「合理的な愚か者(Rational Fools)」という批判があります。
経済学はしばしば、人間を「自己利益を最大化する合理的存在」として扱います。
その前提は分析のためには有効です。
けれどセンは問いかけます。
もし人間を、そのような存在としてだけ設計したら、社会は本当にうまく回るのか。
合理的なのに、全体は壊れる
共有の牧草地に、複数の羊飼いが羊を放つ。
一人ひとりにとって合理的なのは、自分の羊を一頭でも多く連れていくことです。
自分が増やせば得をする。
他人が減らしても、自分は損をする。
だから誰も減らさない。
その結果、牧草地は食べ尽くされ、やがて全員が飢える。
ここで重要なのは、誰も悪意を持っていないことです。
それぞれが合理的に振る舞っただけなのに、全体は破綻する。
センの問いは、人間の愚かさを嘆くものではありません。
むしろ、合理性の前提そのものを疑うものです。
生活者との関係も、共有地である
最近、ときどき考えることがあります。
企業と生活者のあいだにも、一種の「共有地」があるのではないか、と。
それは信頼です。
企業は、生活者の信頼のうえにビジネスを成り立たせています。
広告を信じる。
表示された情報を前提に判断する。
解約や変更が誠実に扱われると期待する。
その前提があるからこそ、取引は成立します。
けれど短期的な数字を最大化しようとするとき、
その信頼を少しだけ前借りする誘惑が生まれます。
条件を分かりにくくする。
不利な情報を目立たなくする。
衝動的な意思決定を促す。
それらは短期的には成果を生むことがあります。
そして市場競争のなかでは、そうした振る舞いが「合理的」に見えてしまうこともある。
誰が愚かなのか
一社が少し強く刈り取れば、他社も追随せざるを得なくなる。
結果として、生活者は防御的になり、広告や訴求はますます過激になり、市場全体への信頼はじわじわと痩せていく。
これは、共有地の悲劇と似た構造です。
個々の企業は合理的に振る舞っている。
けれど全体としては、土壌を削っている。
ここで問うべきは、企業の倫理観の有無だけではないのかもしれません。
むしろ、短期合理性が優先される評価の仕組みそのものが、どのような行動を“合理的”に見せているのかという問いです。
見えない仕組みは、合理性を定義する
仕組みは、人に命令しません。
けれど静かに、「何が得か」「何が正しいか」を定義します。
四半期ごとの評価。
短期KPI中心の報酬設計。
クリックやCVを即時に可視化するダッシュボード。
それらはすべて、「この行動が合理的です」と示している。
もし合理性の時間軸が短すぎれば、長期的な信頼や関係性は後回しになります。
そのとき企業は、愚かなのではなく、愚かに振る舞うことが合理的に見える構造のなかにいるのかもしれません。
持続可能なUXとは何か
UXは、生活者の体験を設計します。
けれど同時に、企業の行動を方向づける装置でもあります。
どの指標を重視するか。
どこに摩擦を置くか。
何を可視化し、何を見えにくくするか。
その選択は、短期的な利益を刈り取る設計にもなり得るし、信頼という共有地を耕す設計にもなり得る。
合理性は自然に生まれるものではありません。
私たちが、見えない仕組みとして設計している。
センの問いは、いまも静かに響いています。
人は愚かなのか。
それとも、愚かに振る舞うしかない仕組みを作っているのか。
信頼という共有地を、どう扱うのか。
その問いは、UXの倫理というよりも、社会設計の問いに近いのかもしれません。


