育成の話を書いてみようと思います。
少し前のことですが、育成のやり方そのものを、かなり真剣に試行錯誤していた時期がありました。
誰に、何を、どんな順序で渡すのがよいのか。正解のない問いを、何度も行ったり来たりしていたように思います。
その過程で、いまでもよく覚えている判断があります。
あるとき、初学者の育成の入り口として『ノンデザイナーズ・デザインブック』から学び始めさせよう、という話が出たことがありました。
とても優れた本です。
資料の見た目を整える、情報を整理する、伝わる形にする。即効性もあり、実務に直結する知識が詰まっている。
判断としては、かなり合理的だったと思います。
ただ、そのとき私は、強く反対しました。
その場で、うまく説明できたかというと、正直あやしい。
「それは違うと思う」という感覚のほうが先に立っていて、理由はあとから言葉を探していたような気がします。
表面をきれいに作れるかどうかは、あとでやればよい。
やっていれば、自然と慣れる。
引っかかっていたのは、そこではありませんでした。
そこから力をつけることで、もっと大事なものを欠落させてしまうんじゃないか。
そんな不安が、どうしても拭えなかった。
私が最初にやってほしかったのは、「整えること」ではありません。
先にヤコブ・ニールセンを読み、なんとなく「気持ち悪い」と感じる状態を、どう言葉にするか。
なぜそう感じるのかを、自分なりに説明しようとすること。
世界を見たときに生まれる違和感に、立ち止まること。
その違和感を、他人に伝わる形に変換しようとすること。
ノンデザイナーズ・デザインブックから始めない。
表面を整えるところから始めない。
そうではなくて、世界の見え方が変わるところから、学習を始めてほしかった。
きれいに説明ができない部分もあるのですが、そんなことを語ったことを覚えています。
もちろん、現場の事情はよく分かっています。
仕事は待ってくれませんし、いつだって人は足りない。
すぐに役立つスキルを入れて、目の前の仕事を片付けたいという気持ちも、自然なものです。
新人も、新人なりに「何か役に立ちたい」と思っている。
短期間でできることが増えれば、本人もうれしいし、チームも助かる。
だからこそ、判断は簡単ではありません。
それでも私は、育成における「手軽さ」は、怖いのです。警戒しないといけないと今も感じています。
手軽に、見栄えのするテクニックを身に着けると、人は「仕事ができるようになった」という錯覚を起こします。
それ自体は、気持ちのいい体験です。
ただ、その「テクニックを覚える」が仕事における成長ととらえるべきなのか。
私が最初に教えたかったのは、知的な興奮であり、世界を違う側から見る、視点が変わるという、あの小さなショックでした。その頭を殴られるような感覚が、UXデザインの仕事で感じる面白さであると思っています。
できれば、それを、初学者のタイミングで知ってほしかった。
表面を整える技術は、あとからいくらでも追いつく。
けれど、世界の見え方が変わるような楽しさを最初に知るほうが、仕事への向き合いも幸せなものになるんじゃないか。
そんなことを思っていたのだと思います。
ジョッシュ・ウェイツキンの『習熟の情熱』に、こんな一節があります。
テクニックで勝てる手を覚えるのは、心理的に中毒性がある。短期的に何かができるようになる気もする。
自分が何者かになった錯覚を起こす。
また、そのテクニックのバリエーションは豊かなので、暗記に一生を費やすこともできてしまう。
だけどそれは、極端にいえば勉強方法を覚えるかわりに先生の机からテスト内容を盗み出すのに似てる。いい点をとっても、何一つ学んでない。何より、仕事の価値や美しさを味わって認識することができない。
仕事は結果がすべてで、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。勝つためのゲーム、それもいかにローコストで勝つかという薄っぺらなゲームとしか見れなくなってしまう。
何か大切なことを学び、できることを増やすというのは、時間も愛情もかかるもの。難しいことができるようになるためには、手軽さに走ると長期的に致命傷を受ける。
端的に言えば、手軽さに走るのは害悪なんだ。
あのときの判断は、たぶん、この感覚に近かったのだと思います。
今も、仮に育成の現場から『ノンデザイナーズ・デザインブック』から教えたいというアイデアが提示されたら、正直また現場の苦労を思って複雑な気持ちになるでしょうし、迷うと思います。
ただそれでも、仕事をテクニックの集合体と思ってほしくないという思いは変わっていません。
仕事の知的な興奮を、知ってほしい。そこから学びを始めてほしい。UXデザイナの教育の一歩目は、やはりそこからじゃないかと思っています。


