機会が奪われるという不安
生成AIの普及とともに、若手の育成についてある懸念が語られるようになりました。
AIが資料をつくり、整理をし、設計を補助する。
これまで若手が担ってきた作業が高速化されることで、「経験を積む機会」が減ってしまうのではないか。
下積みの場がなくなるのではないか。
もっともに聞こえる話です。
けれど一度、立ち止まって考えてみたいのです。
そもそも、私たちは何によって育ってきたのでしょうか。
1ページをやり切った時間
若いころ、1ページのPPT資料を仕上げるのに、標準の何倍もの時間をかけていました。
そもそも目的は何かを何度も問われ、構成を何度も組み替え、図解の枠組みを何度も変え、言葉を差し替え、論理の飛躍を潰し、想定される反論を洗い出す。
その過程で、あり得る失敗、落ちるべき穴のすべてに落ちてきました。
思考なく先輩の資料をトレースしている。
目的が見えない。
そもそもスライドの質が低くて売り物にならない。
抽象的なレベルで気持ちよくなって、具体に踏み込んでいない。
言葉一つ一つを煮詰めていない。
・・・
何度も突き返されました。
振り返ってみると、あの時間が糧になったのは、単に「量をこなした」からではありません。
ただ手を動かしていた時間が、そのまま力になったわけではない。
本当に効いていたのは、ここまで検討しなければ通らない、ここまでチェックしなければ売り物にならない、という基準が、自分の中に立ち上がったことでした。
ある瞬間から、他人に言われる前に自分でわかるようになる。
まだ煮詰めが足りない。
ここは食い足りない。
飛躍がある。
このままでは売れない。
外部にあった基準が、内部に移る。
それが「質」だったのだと思います。
量ではなく、基準の内在化
「量が質に転換する」という言葉があります。
たしかに、ある程度の反復は必要でしょう。
しかし転換が起きていたのは、単純な物理的量ではなく、外部の基準に何度も触れ、それを自分の内側に取り込む過程だったのではないでしょうか。
作業量そのものよりも、判断の密度が積み重なること。
もともと自分になかった基準が、徐々に内在化していく。
それが質に転換するという現象の正体だったのではと思います。
機械協働時代の転換
機械協働の時代に入り、作業の多くは高速化されつつあります。
情報整理も、構造化も、一定水準のアウトプットも、以前より短時間で到達できるようになりました。
これをもって、若手の機会が減ると考えるのは自然です。
ですが、もし育成の本質が「基準の内在化」にあるのだとすれば、作業の高速化は必ずしも機会の消失を意味しません。
AIは正解候補を出すことはできます。
チェックリストを提示することもできる。
しかし、どこまでやれば売り物なのか。どこで妥協しないのか。
その基準を自分のものにすることまでは、肩代わりできません。
そこには依然として、人間によって判断することが必要だと思っています。
機会の消失か、質の転換か
時代的に「量が質に転換する」ところまで粘るような、体力勝負の育成アプローチは選びにくなっていたところに、機械協働という新しい環境が出現しました。
これは、育成面ではポジティブな面が多いのではと私は思います。
基礎作業は補助され、再試行の速度は上がり、一定水準への到達は早まっている。
だからこそ、作業の量に頼らず、判断経験をたくさん積むような設計ができる可能性が生まれてきたと思います。
若手にどれだけ手を動かさせるかではなく、どれだけ意味を問うか。
AIによる補助がある分、「なぜそれが価値になるのか」を問い続ける隙間がある。
機会は減るのではなく、質が変わる。
量をこなす時代ではなくとも、基準を内在化するチャンスは増えている。
そう考える余地は、十分にあるのではないでしょうか。


