忙しいのに、前に進んでいる感じがしない。 優秀な人ほど、静かに疲れていく。
組織の話をしていると、そうした感覚が共有されることが少なくありません。能力が足りないわけでも、熱意がないわけでもない。それでもなぜか、力が成果に変換されていかない。
私はこの違和感を、エネルギーの総量ではなく、向きの問題として考えるようになりました。
人や組織には、確かにエネルギーがあります。しかしそのエネルギーが、価値に向かって使われるのか、それとも内部で消費されてしまうのかは、偶然ではなく設計の結果です。
オグルヴィが嫌悪したもの
20代の頃に読んだ、デイヴィッド・オグルヴィの『ある広告人の告白』は、広告の本というより、会社づくりの本でした。
そこに書かれていたのは、ノウハウやテクニック以上に、はっきりとした態度でした。
・くだらない内部のやりとり
・責任をぼかすための会議
・自己保身のための仕事
オグルヴィは、こうしたものを徹底的に嫌悪します。
今の感覚で言えば、ポリティカルに正しくない、と感じられる部分もあるでしょう。ただ、彼が否定していたのは人ではなく、エネルギーの浪費だったのだと思います。
一流の人が、価値とは無関係な理由で疲弊していくこと。それを当然のものとして放置すること。オグルヴィが許さなかったのは、そうした構造そのものでした。
組織にもUXがある
UXは、画面や導線だけの話ではありません。
環境が、人の振る舞いを決める。何に時間を使い、何に注意を払い、どこで力を抜くのか。UXとは、そうした行動を無言で誘導する設計です。
その意味で、組織もまた一つのUXだと言えます。
組織は、制度や評価、会議や承認プロセスを通じて、 「ここに力を使うと報われる」 「ここに力を使っても意味がない」 というメッセージを、日々発信しています。
つまり、組織の設計には、人のエネルギーがどこへ向かうかを決めてしまう、メンバーのエクスペリエンスを決めてしまう部分があるということです。
内部に吸い取られるエネルギー
多くの組織では、善意と合理性の積み重ねの結果、エネルギーが内側に吸い取られていきます。
・承認の階層が増える (仕事を前に進めようと、承認者の関心事への配慮をするように)
・評価軸が価値からずれる (上司に怒られないことが大事になる等)
・失敗しないことが最適化される(何もやらないことが最善になる等)
すると、人はユーザを見なくなります。
組織の上位者、直接の上司を見るようになり、その想像力は空気を読むことに費やされます。
一番遠くに行ける人ほど、そうした環境に違和感を覚え、やがて力を抜き始める。これは個人の問題ではなく、設計の問題だと考えます。
エネルギーを遠くへ送るための宣言
私は過去に、社内向けに一つの宣言を書いたことがあります(多分にオグルヴィに影響を受けていますね)。
一流の仕事を、全力で仕上げる人を尊敬し、多少のエキセントリックさは大目に見る。 コントロールされることを嫌うのは当然であり、自律的な価値の追求は肯定される。 停滞のムードを持ち込み、優秀な人の情熱を奪う人とはお別れをしないといけない。
前のめりの失敗には極めて寛容な組織にする。一方で、安全地帯からの批評だけを繰り返す姿勢は歓迎しない。
変化から逃げず、組織はその変化を支えるようにデザインし続ける。
これらは、理想論というより、エネルギーが無駄に消えていくことを防ぎ、できるだけ遠くに届けるための設計でした。
心理的安全性とは別の軸
近年よく語られる心理的安全性は、とても大切な概念です。
ただし、それは「何をしても許される」状態を意味しません。ここで担保されるべきなのは、挑戦する人、責任を引き受ける人の安全性です。
何もしない自由や、対話を拒絶する自由ではない。
だからこそ、文化を守るためには、補正や排除といった行為から目を背けない必要があると考えます。放置された自由は、結局のところエネルギーを腐らせるように思います。
組織にも、「美しい」と感じる形がある
こうした考え方は、今の時代には合わないと言われるかもしれません。 もっと優しく、もっと包摂的な組織像が求められているのも事実です。
それでも私は、エネルギーが、 一番遠くに行くために使われる組織は、 やはり美しいと感じてしまう。
組織は、人の力を消耗させる場所にも、解き放つ場所にもなり得る。その分かれ目は、意志をもって設計されているかどうかにあります。UXの仕事が環境を設計する営みであるならば、組織のUXもまた、逃げずに向き合うべき設計対象なのだと思います。


