最近、ラングドン・ウィナーの『クジラと原子炉』という本を読み始めました。序盤に、とても印象的な話が出てきます。
ニューヨークの公園道路に架けられた橋の話です。
その橋は、バスが通れないほど低く作られていたと言われています。当時、バスは主にお金のない人たちが利用する交通手段でした。具体的には黒人の人々が多く使っていたとも言われています。
橋が低いことで、バスはその道路に入ることができません。結果として、その先にあるビーチにはバスでは行けなくなり、そこを訪れる人々は自然と限られ、白人ばかりになったそうです。
この橋が本当にそうした意図をもって設計されたのかどうかについては、今でも議論があるようです。ただ少なくとも、この話が示していることは一つあります。
アーキテクチャは、社会的な結果を生む。
橋はただの橋です。しかしその高さが、人の流れを変え、誰がどこへ行けるのかを決めてしまうことがあります。
こうしたことは、私たちの身の回りでも起きています。
たとえば、特定の言語でしか書かれていない張り紙も、ある意味では「低い橋」なのかもしれません。読める人には情報が届き、読めない人には届かない。情報の設計もまた、誰が通れるのかを決めてしまうからです。
これらは、誰かを排除する意図で作られたわけではないかもしれません。
しかし、ときとしてアーキテクチャは分断を生みます。
ある仕組みの設計は、人の行動を少しずつ変えます。そしてその積み重ねが、誰がそこに参加できるのかを決めていきます。
デジタルの世界でも同じことが起きています。
あるインターフェースが極端に分かりにくかったり、使うための手続きが複雑すぎたりすると、そのサービスは結果として一部の人しか使えないものになっていきます。
それは誰かを排除する意図ではないのかもしれません。しかし構造として見ると、そこにはアンフェアな部分、つまり小さな分断が生まれています。
設計とは、単に物や仕組みを作ることではありません。
その設計が、どんな社会的な結果を生むのかまで含んでいます。
私たちが作るサービスや仕組みも、例外ではないはずです。
それは誰にとって使いやすいのか。
誰にとって参加しやすいのか。
そして、結果として誰を遠ざけてしまうのか。
「気づかないうちに、私たちは誰かにとっての『低い橋』を作ってしまっていないか?」
ときどき立ち止まって、そんな問いを持ってみることも大切なのだと思います。


