業務システムの設計について相談を受けました。
要件が固まりきらないまま、開発を始めなければならない。
拠りどころが欲しい。
そこで今回は、エンドクライアントの要望で「OOUIでやろう」という方針になっている。
そんな状況のなかで、発注を受けているクリエイティブのチームが戸惑っている、という内容でした。
話を聞くうちに気になったのは、受注側が反射的に「とにかくOOUIを学ばなければ」と構えてしまっていることでした。
OOUIに関する知識の差が、チームのエネルギーを前向きな方向に向けるどころか、どこかぎこちなくさせている。
方法論が、推進の装置というよりも、場を黙らせる装置として働いているのではないか。
そんな感覚が残りました。
混乱の反動としての方法論
現場は疲れています。
フローが増え、機能が積み上がり、整合がとれなくなった。
誰も全体像を説明できない。
そうした経験のあとで掲げられる方法論は、混乱を繰り返さないための軸に見えます。
誰も使い勝手を落としたいわけではない。
運用負荷を上げたいわけでもない。
だから指針を持ちたい。
その動機は、健全です。
ただ、方法論は単なる道具以上の力を持ちます。
場の空気を整え、判断の方向をそろえ、ときに、言葉を持つ人に静かな優位をもたらします。
正しさを語れる人が強くなる
正解が見えない。
判断は重い。
責任は曖昧。
この状況では、概念を扱える人が自然と中心に立ちます。
OOUI。
JTBD。
HCD。
本来は思考を助けるための言葉が、いつのまにか判断の拠りどころそのものになる。
「それはオブジェクトですか?」
「それは本当のJobですか?」
問いは有効です。
けれど、その問いに答えられる人と答えられない人のあいだに、目に見えない段差が生まれることもあります。
特定の方法論に詳しいことが、自覚の有無にかかわらずマウントにつながり、場の重心が少しずつずれていく。
その結果、チーム全体が前に進む力が、かえって弱まってしまう姿を、私は何度か見てきました。
私自身の立ち位置
私は、方法論の強さで勝ってきた会社で育ちました。
洗練された概念整理は武器になります。
組織を動かす力にもなります。
参入障壁にもなりますし、それはコンサルティング会社にとって、生き残る知恵でもあります。
けれど同時に、その強さが、場を硬直させていく瞬間があることも知っています。
概念を持つ人が発言し、持たない人が少し黙る。
方法論は共通言語であるはずなのに、ときに見えない序列をつくってしまう。
その構造に、私自身も無縁ではありません。
方法論は、免罪符ではない
今回の相談にあった「OOUIでやろう」という決断は、何かを決めたようでいて、実は何も決めていないのかもしれません。
本来、核にあるはずの問い――誰のために、何を実現するのか。
その議論が棚上げされたまま、「OOUIを勉強しよう」にエネルギーが向かってしまう。
旗は必要です。
共通言語も必要です。
習熟のためのコストを払うことも、もちろん大切です。
ただ、方法論という静かな力に振り回され、知らず知らずのうちに疲弊していく。
その状態に無自覚であることは、あまり健全とは言えないように思います。
こうした問いを他人に向ける前に、まずは自分の足元から確かめておきたいと思います。


