先日、「悪の凡庸さ」を引用しつつ、歪んだ結果を生む構造も悪意から作られているわけではない、という文章を書きました。
自分の役割を果たし、その場で合理的に判断した人々の積み重ねが、結果として巨大な悪を形づくってしまうことがある。(過去記事)
この議論に触れながら、ひとつの逆方向の問いが浮かびました。
私たちの「善なる」判断もまた、「その時点での合理性」によって積み重なっているのではないか。
丸く収めるという合理性
組織のなかで判断を迫られるとき、もっとも自然に立ち上がる基準は、短期的な合理性です。
例えば、いわゆる「声の大きい人」が何らかの主張をしているシーンを想像してください。
そこで、波風を立てない。摩擦を減らす。あえて争点を広げない。
どれも間違いではありません。
むしろ、その場においては十分に合理的です。
問題は、その合理性が積み重なったときに、何が起きるか。組織の中に、「こういうときはそうするものだ」という、文化が意図せざる結果として形成されてしまうという点です。
スケールが切り替わる瞬間
ある場面で、私は少し違う判断をしました。
目の前の状況だけを見れば、丸く収めるほうが合理的だったかもしれない。
けれど、短い時間のなかで、判断のスケールが切り替わる感覚がありました。
部下が見ている。
この判断は、組織の文化を形づくってしまう。
ここで示す基準が、若手にとっての暗黙の訓導になる。
そして、自分はどういう人間でありたいのか。
その瞬間、目の前の合理性よりも、長い時間軸での合理性のほうが重く見えました。
善悪の葛藤というより、どのスケールで合理的に考えるか、という選択だったのかもしれません。
地形が合理性を決める
この経験を振り返ると、そこにあったのは特別な道徳心ではありませんでした。
・行為が他者に見られていること
・文化への影響が想像できること
・自分の物語と接続していること
そうした条件が同時に立ち上がっていた。
もしその場が、
・匿名的で
・短期成果だけが評価され
・影響が見えない構造であれば
別の合理性が勝っていた可能性は十分にあります。
私たちは善悪で動いているというより、その場で可視化されている合理性に従っている。
そしてその合理性は、環境によって形づくられている。
悪の凡庸さの、もう一つの側面
「悪の凡庸さ」は、合理的判断の積み重ねが悪を生みうることを示しました。
では、その反対はどうか。
邪な心を持たないわけではない。短期的に得をしたい誘惑もある。
それでも長いスケールの判断が勝つ環境は、確かに存在する。
それは、善人になることの話ではなく、合理性のスケールがちがっていた、という話です。
善もまた、凡庸である
もし悪が凡庸であるなら、善もまた、凡庸である。
それは崇高な人格の証明ではない。
ただ、その場でどの時間軸を合理的とみなしたか、その違いにすぎない。
私たちは英雄的な意志で動いているのではなく、見えている合理性に従って判断している。
だからこそ問うべきは、人の心の強さではなく、どの合理性が立ち上がる地形をつくっているか、ということなのかもしれません。
世界は、日々の判断の積み重ねで形づくられています。
その判断を支えるのは、心の清らかさよりも、どのスケールが見えているか、という条件ではないか。
倫理は意志の強さではなく、合理性のスケールの問題と考えることもできるのではと思います。


