SNSや動画、ニュースアプリを開くたび、私たちは数えきれない刺激に囲まれます。
驚き、怒り、笑い、共感。
人の感情のツボを正確に突くコンテンツが、ほとんど無限に供給されている。
「つい見てしまう」
その感覚は、偶然ではありません。
人の注意や滞在時間が、広告や売上に直結する。
注意そのものが換金可能な資源として扱われる。
いわゆる「アテンション・エコノミー」と呼ばれる構造は、いまや多くの人に共有されています。
山本龍彦『アテンション・エコノミーの罠』でも、こうした仕組みは、現代に生まれた強力な装置として論じられています。
レコメンド技術は高度化し、過去の行動履歴や視線の動き、スクロールの止まり方までが学習される。
その結果、「あなたが気に入りそうなもの」が、ほとんど迷いなく提示される。
気づかないうちに、ゴシップ、過激な動画、怒りを煽る話題、かわいい動物たちに囲まれていく。
接触頻度や閲覧時間が極端に高まれば、それは「依存」に近い状態だ、と捉えられることもあるでしょう。
この構造を、問題として捉える視点は、とても重要だと思います。
ただ、最近、少し立ち止まって考えたくなることもあります。
正しさだけで言えば、
「アテンションを引く技術で生活者を食い物にしている」
という語り方も成立します。
けれど、それだけで語り切ってしまってよいのだろうか。
そんな疑問が、残ります。
酒、砂糖、ギャンブル。
どれも、依存や健康被害と結びつけられてきたものです。
同時に、それらが人々の生活の中で、緊張を緩めたり、気分を切り替えたりする役割を担ってきたことも、事実としてあります。
アテンションを引くコンテンツも、いま、多くの人の生活の中で、似た位置に置かれているように見えます。
コントロールを失うことは避けたい。
一方で、常に集中し、深く考え続ける状態を保つのも現実的ではない。
何も考えずに時間を過ごすための手段として、ショート動画やSNSが選ばれている場面がある。
その状況自体は、否定とも肯定とも別に、確かに存在しています。
もうひとつ気になるのは、表現としての側面です。
数秒で完結する構成。
視線やリズムを前提にした編集。
身体感覚に訴えかけるテンポ。
現在のショート動画は、単に「依存を生む仕組み」という言葉だけでは捉えきれないところまで来ています。
漫画やテレビ、ゲームも、登場した当初は「堕落の象徴」として扱われてきました。
考える力を奪う、時間の無駄だ、と。
その一方で、規制や距離の取り方が模索される中で、一部は文化や表現として定着していった。
アテンション・エコノミーも、そうした過程の途中にあるのかもしれません。
アテンション・エコノミーを、単純に善悪で切り分けることはできない。
同時に、無邪気に肯定することも難しい。
規制が進むのかもしれない。
生活者が距離を取り始めるのかもしれない。
ただ、いま起きていることをすべて「悪かったこと」として整理してしまうと、
考えるための視点まで一緒に失ってしまう気もしています。
アテンションを引くこと自体ではなく、
その関係から、人が戻ってこられる余地をどう残すのか。
その問いは、まだ答えの出ないまま、ここに置いておきたいと思います。


