「生活者の内面理解」に感じる限界
人が変わらないとき、私たちはつい内面に理由を探します。
意識が足りないのではないか。
動機が弱いのではないか。
覚悟が不足しているのではないか。
けれど、実務の現場にいると、そう単純ではないと感じる場面が多くあります。
習慣が続かないのは、意志の問題なのか。
組織が動かないのは、情熱が不足しているからなのか。
むしろ、その人が置かれている環境のほうが、行動をそっと方向づけているのではないか。
【行動】を規定する環境
UXデザインの仕事をしていると、行動は驚くほど環境に左右されます。
通知の設計。
選択肢の並び。
評価の仕組み。
フィードバックのあり方。
人を説得するよりも、場の設計を整えたほうが、人は自然と違う行動を選ぶようになる。
内面を変えるのではなく、環境を整える。
ここで見ているのは、「今、どの行動が自然と選ばれるのか」というレイヤーです。
どの選択肢が目に入りやすいのか。
どの行為が心地よく続いていくのか。
どの習慣がゆっくりと根づいていくのか。
このレベルでは、環境は行動を“誘導する地形”のようなものです。
私はこの視点に、実務のなかで確かな手応えを感じてきました。
けれど、その前に何があるのか──【性向】を規定する環境
ただ、最近あらためて触れたピエール・ブルデューの議論は、その視点をもう一段外へ押し広げます。
彼が扱ったのは、行動のテクニックではありません。
問いは、もっと根源的です。
私たちは、なぜそれを「良い」と感じるのか。
なぜそれを「自然」だと思うのか。
なぜそれが自分の射程に入っていると感じるのか。
ブルデューは、この身体化された傾向を「ハビトゥス」と呼びました。
ハビトゥスは、行動そのものではありません。
それは、
・世界の見え方
・可能性の感じ方
・当然と思える振る舞い
といった、より基礎的な“性向”です。
たとえば、楽器演奏を趣味として選ぶ人がいるとします。
それは単に、時間があるからでも、努力できる性格だからでもないかもしれない。
もっと手前に、どこかで音楽を美しいと感じる経験があり、音楽は「聴くだけでなく、演奏するものでもある」という感覚が自然に育っているからこそ、演奏するという行為が、その人の世界のなかで無理のない選択肢として立ち現れている。
つまり、演奏するという行為そのものが、その人の世界のなかで“選択肢として見えている”こと自体が、外側の環境の積み重ねによって支えられているのかもしれません。
家庭、学校、友人関係。
触れてきた文化や価値観の積み重ね。
それらが、何を自然と感じるかをゆっくりと育てていく。
二つの環境は重なっている
整理すると、少なくとも二つのレイヤーが見えてきます。
① 行動を規定する環境
どの行動が起きるかを左右する環境。
比較的、設計や制度によって介入できる世界。
② 性向を規定する環境
何を良いと感じるか、何が射程に入るかを形づくる環境。
長い時間のなかで身体化される世界。
これまで私が扱ってきたのは①でした。
けれど、その前提に②がある。
行動は環境のなかで自然と選ばれていく。
しかし、何が「選べるもの」として見えているかは、さらに深い環境のなかで育っている。
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もともと、内面ではなく外側の環境を見ようとしていました。
けれど、その環境のさらに外側があった。
そう気づいた瞬間、ひとつの心地よいショックがありました。
デザインの力が及ぶ部分ではないかもしれませんが、このレンズをもって眺めてみれば、社会というより大きな仕組みの一部として、UXデザインを捉えることができる。
決定論ではなく、視野の拡張
もちろん、すべてが環境で決まると言いたいわけではありません。
人は環境の中で育ちつつ、その環境をずらし、再解釈し、ときに乗り越えることもあるでしょう。
ですが、行動を選び取る瞬間、またさらにそもそも何を良いと思うかという感覚そのものを、緩やかに環境が支えているという捉え方には、ひとつの真実があるようにも思うのです。
私が紹介したかったのは、ブルデューの理論の細部というよりも、「さらに外側を見る」という目線です。
行動が生まれる瞬間に何が起こっているかは、内面に潜るのではなく、外側にある地形を観察する。
そして、その内面にある性向すらも環境のなかで育っているかもしれないと想像してみる。
それは、世界をより立体的に捉えるための視点です。
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いまはまだ、この二つの「外側」の重なりをのぞき込んでいる段階です。
けれど、【行動】だけでなく、その前提となる【性向】まで視野に入れること。
そこに、もう一段広い世界があるように感じています。
もう少し、この「外側」を歩いてみたいと思っています。


