以前、1to1マーケティングの話をしていたときのことです。
「理屈は分かるんです」
「本当は、一人ひとりに合った提案をしたほうがいいのも分かっている」
そう前置きしたうえで、
こんな言葉が返ってきました。
「それでも、追い込まれたら、
全員に一斉に出してしまうと思うんです。
ラッキーパンチでも、少しでも売れてほしい、という願いをどうしても捨てきれない」
とても正直な言葉だと思いました。
これは、知識の問題でも、理解の問題でもありません。
むしろ、長くビジネスをやってきたからこそ、身体に染みついた感覚なのだと思います。
一期一会になろうが、「広告量で勝負」というパラダイムは、いまも確かに生きています。
それは単なるアンラーン(学習棄却)の失敗ではなく、実際に現場を救ってきた「成功体験」でもある。
不格好でも露出を増やし、結果として数字が動き、事業が持ち直した経験を踏まえると、
うまくいかなくなったとき「もう一度、出す」という判断に戻るのはとても自然なことです。
難しいのは、このパラダイムがいまでも条件次第では“効いてしまう”ことです。
短期的には、可能性を捨てられないレベルで成果が出る。
だから、判断が余計に難しくなる。
一方で、生活者としての私たちの感覚は、少しずつ、しかし確実に変わっています。
どんな企業と、長く付き合いたいか。
どんな提案なら、日々の中で受け入れられるか。
その判断は、広告の量や勢いだけでは、決まらなくなっている。
キャンペーンが魅力的かどうか。
表現がキャッチーかどうか。
それらは入口としては機能するものの、関係が続くかどうかは「使ってみてどうだったか」次第。
ここで起きているのは、善悪の話ではありません。
- 広告量の勝負は、短期で効く(失敗してもやらないよりはマシという期待で動くのでやりやすい)
- 使用体験の評価は、遅れて、静かに効く(遅効なので意思を持って続けることがタフ、やりにくい)
この時間軸のズレが、企業の判断を苦しくしています。
だからこそ、揺り戻しが起きる。
正論としては使用体験が大切を分かっていても、追い込まれたとき
「意味がないかもしれないが、広告を全員に出したくなる」
という気持ちが、湧いてくる。
それは、間違いではありません。
むしろ、これまでのビジネスの現実を、正直に反映した感覚です。
ただ、そうした事情を踏まえたとしても、です。
生活者としての私たちは、すでに選び始めています。
- 邪魔をしてこない企業
- 使い続けてみて、ちゃんと良かったサービス
- 意味ある提案をしてくるアプリ
この判断軸は、もうかなり安定してしまっています。
だとすると、経営や組織の側が、この視点を持つことは、シビアな現実への適応なのだと思います。
顧客接点を、露出の場として設計するのか。
それとも、日々の体験の一部として設計するのか。
広告量で救われてきた歴史を踏まえつつ、
その次のモデルを、意識的に引き受けないといけない。
使用体験への移行とは、すでに変わってしまった生活者の感覚に、経営判断の目線をそろえていくことなのだと思います。


