「ユーザーになりきる」という言葉に感じる違和感
UXの文脈で、よく使われる言い回しがあります。
「ユーザーの気持ちを理解する」
「ユーザーになりきる」
「ユーザーに憑依する」
言っていることは、分かります。
生活者の立場に立とう、想像力を働かせよう、という前向きな意図なのだろうと思います。
それでも、私はこれらの言葉を耳にするたびに、少し立ち止まってしまう。
どうしても、気持ち悪さが残るのです。
それは、怠けているとか、想像力が足りないという話ではありません。
むしろ逆で、そんなに簡単に越えられる境界ではないだろう、という感覚です。
知らないものは、イメージできない
何年も前に読んだ、平田オリザの『わかりあえないことから』に出てきたエピソードを、時々思い出します。
古い戯曲の中に
「銀のサモワールでお茶を入れてよ」
という台詞がある。
ところが現代の役者にそれを演じさせようとすると、そもそも「サモワール」とは何かが分からない。
形も、重さも、扱い方も、生活の中での位置づけも、実感として持っていない。
知識として説明することはできても、身体的なイメージが立ち上がらない。
同じ構図の話で、列車と隣り合った人との会話というものも紹介されていた記憶があります。
何十年も前、長時間列車に乗ると、隣り合った人とそれなりに会話をしたり、仲良くなれば冷凍ミカンをもらう。そんな光景が、当時は珍しくなかった。
けれど、いまの若い役者にそのシーンを演じさせようとしても、体験がない。
想像しようにも、入口に立てない。
知らないことは、イメージできない。
想像しようにも、できない。
「憑依」という言葉の危うさ
あらためてUXの話をしますが、私は「ユーザーになりきる」「憑依する」という言葉がでると、ちょっと構えてしまいます。
憑依、という言葉には、
- 相手と自分の境界が消える
- 相手の内側に入り込める
そんなニュアンスが含まれています。
でも本当に、そんなことが起きているのでしょうか。
実際には多くの場合、
- 自分の経験で補完している
- 分からない部分を、分かったことにしている
- 都合のよい文脈だけを拾っている
それは「憑依」なのか。
サモワールを知らないまま、冷凍ミカンを知らないまま、それでも「分かったつもり」になってしまう。その軽さが、どうしても引っかかるのです。
分からなさを残す、という態度
誤解のないように言えば、これは「想像力を否定したい」という話ではありません。
ただ、想像力を「相手を理解しきるための能力」として扱うことには抵抗があります。
知らないものは、知らない。
体験していないものは、体験していない。
その事実を飛び越えて「分かった」「なりきった」と言ってしまうとき、私たちは想像力ではなく、自分をごまかしているだけなんじゃないか。
想像力とは、分かることではなく、分からなさを残すことでもあるんじゃないかと思います。
境界線を消すことではなく、境界線を意識し続けることという言い方もできうる。気持ち悪さを抱えて、それでも想像する、という感覚があるのではと思っています。
「なりきらない」まま、設計する
サモワールを知らない。冷凍ミカンを知らない。
その事実は、消えません。
だからこそ、
- 分かったつもりにならない
- 相手の人生を引き受けたふりをしない
- 自分が立っている位置を、常に疑う
その前提で、設計を続ける。
「ユーザーになりきる」という言葉があまりに軽く使われる場面を見るたびに、私はその距離感を、もう一度取り戻したいと思ってしまうのです。


